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tokenpocket钱包官网下载app正版|本田美奈子

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本田美奈子. - Wikipedia

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1生涯

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1.1アイドル歌手としてデビュー

1.2ミュージカルでの活躍

1.3クラシカル・クロスオーバーへの進出

1.4死去

2音楽

音楽サブセクションを切り替えます

2.1多彩なジャンルでの活躍

2.1.1演歌への志向

2.1.2アイドル歌手として

2.1.3洋楽からの影響

2.1.4ロックバンドでの活動

2.1.5ミュージカル女優として

2.1.6ミュージカル期のスタジオ録音

2.1.7声楽への進出

2.1.8ジャズへの見果てぬ夢

2.2影響関係

2.3歌唱技術

2.4作詞・作曲

3人物

人物サブセクションを切り替えます

3.1人柄

3.2歌への情熱

3.2.1『ミス・サイゴン』での事故

3.2.2歌に捧げた人生

3.2.3復帰を目指して

3.3手記・歌詞に綴られた言葉

3.3.1自然・平和への愛

3.3.2小さな幸せ・時

4評価

評価サブセクションを切り替えます

4.1生前の受賞・ランキングなど

4.2没後の表彰など

4.3関係者・評論家等の声

5交友関係

交友関係サブセクションを切り替えます

5.1デビューまで

5.2歌手活動が結んだ縁

5.3療養生活を支えた絆

6没後の動向

没後の動向サブセクションを切り替えます

6.1病死への反響

6.2未発表音源など

6.3今も愛される歌声

6.4本田を扱った作品

6.5本田美奈子.ミュージアム

7ディスコグラフィ

8トリビュート

9出演

出演サブセクションを切り替えます

9.1舞台(ミュージカル)

9.2映画

9.3Vシネマ

9.4テレビドラマ

9.5テレビ司会

9.6特別番組

9.7ラジオ

9.8CM

9.9広告

10書籍

書籍サブセクションを切り替えます

10.1エッセイ

10.2写真集

10.3楽譜

10.4伝記

11脚注

脚注サブセクションを切り替えます

11.1注釈

11.2出典

12参考文献

13外部リンク

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本田美奈子.

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年8月)

大言壮語的な記述になっています。(2012年8月)

独自研究が含まれているおそれがあります。(2012年8月)出典検索?: "本田美奈子." – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL

テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。

本田 美奈子.出生名

工藤 美奈子生誕

(1967-07-31) 1967年7月31日 東京都板橋区[1]出身地

東京都葛飾区死没

(2005-11-06) 2005年11月6日(38歳没) 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[2]学歴

堀越高等学校卒業ジャンル

アイドル歌謡曲、J-POP、ミュージカル、声楽曲、クラシカル・クロスオーバー職業

歌手、 アイドル、女優活動期間

1985年 - 2005年レーベル

東芝EMIマーキュリー・ミュージックエンタテインメントバンダイ・ミュージックエンタテインメントマーベラスエンターテイメントコロムビアミュージックエンタテインメント事務所

ボンド企画(1983年 - 1992年)トリプルA(旧社名:スリーA、1992年 - 1996年)BMI(1996年 - 2005年)共同作業者

岩谷時子、井上鑑、岡野博行公式サイト

minako-channel

越路吹雪、サラ・ブライトマン

本田 美奈子.(ほんだ みなこ、1967年7月31日[3] - 2005年11月6日)は、日本の歌手、女優、声楽家。

本名、工藤 美奈子(くどう みなこ)。 身長:162 cm、体重:43 kg、B:74 cm、W:56 cm、H:76 cm。血液型はO型。1985年、シングル「殺意のバカンス」で歌手としてデビュー。1980年代はアイドル歌手として、1990年代以降は主にミュージカルで活動した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦する。なお、姓名判断により名前の後に「.」をつけ改名したのは2004年11月からである[4][註 1]。

生涯

アイドル歌手としてデビュー

1967年(昭和42年)7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町(現:成増)の成増産院にて、体重2860gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられる[5]。家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、朝霞白百合幼稚園に入園した。以来、生涯の大半を朝霞市で過ごした。

歌手になることを夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受けた。14歳で出場したテレビ予選では柏原芳恵の「ハロー・グッバイ」を歌い、合格して決戦大会へ進出した。この時の出場者の5人の中には松本明子と徳永英明がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。15歳を迎えて出場した決戦大会では松田聖子の「ブルーエンジェル」を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった[註 2]。

1983年(昭和58年)4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際に、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名に至っていなかった。社長の高杉敬二とはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。中原めいこのヒット曲『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうである。

高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞[1]。このことがレコードデビューのきっかけとなった。

1985年(昭和60年)4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビューした[1]。同期デビューに、森川美穂・中山美穂・南野陽子・森口博子・斉藤由貴・大西結花・橋本美加子・芳本美代子・井森美幸・浅香唯、石野陽子・松本典子・森下恵理・おニャン子クラブなど、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては松本伊代・岩井小百合に続いて日本武道館コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。

1986年(昭和61年)2月5日に「1986年のマリリン」をリリース[1]。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。

1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成[1]、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年(平成元年)秋に解散した。

ミュージカルでの活躍

1990年(平成2年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年(平成4年)5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力が高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞[1]。

1994年(平成6年)、『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。

1996年(平成8年)、『王様と私』にタプチム役で出演。

1997年(平成9年)、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演[1]。以後も繰り返しこの役で出演した。

1998年(平成10年)にはエイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。

同じく2000年(平成12年)10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。

2002年(平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。

クラシカル・クロスオーバーへの進出

2003年(平成15年)5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。

同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。

2004年(平成16年)、地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。

死去

2004年(平成16年)末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた[6]。そんな中11月には地元・朝霞市でのコンサートや、12月23日には新宿文化センター大ホールでのクリスマスコンサート、暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となった翌2005年1月30日テレビ朝日系放送の「題名のない音楽会21」の収録に臨んだ。

翌2005年(平成17年)1月12日、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された[6]。

その後、2度に亘る化学療法を受けるが、寛解は得られなかった[6]。急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けた[6]。同7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月8日に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けた[6]。翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のためのNPO法人『Live for Life』が設立されたが、同月末には再入院となった[6]。その後肺への合併症から容態が急変し、同年11月6日午前4時38分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で家族をはじめとした親類、所属事務所関係者らから看取られながら息を引き取った[2][7]。38歳没[1]。

法名は、長らく『釋 優聲(しゃく ゆうしょう)』であったが、納骨されている寺の住職の厚意によって2011年に院号が追贈され、現在は『澄光院(ちょうこういん) 釋 優聲』となっている。

音楽

多彩なジャンルでの活躍

演歌への志向

当初は演歌歌手志望[1]で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌ばかりだった[5]。所属するボンド企画は演歌歌手を育てた経験がなかったため、アイドルとしてデビューすることになったものの、アイドルとしては珍しい曲調である「殺意のバカンス」がデビュー曲になったのは、こうした本人の意向を考慮し、個性を活かす方針が取られたからだという。

またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌った[8] ほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており[9]、この計画はある程度具体化していたらしい。

この後にもアルバム『JUNCTION』にオリジナル演歌とも見做し得る楽曲(「風流風鈴初恋譚」)を収録したほか、コンサートでは度々演歌をカバーしていた。

アイドル歌手として

1985年(昭和60年)4月20日のデビュー以降、筒美京平による作曲作品が多く組まれた。同年9月28日に発売された4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」がヒットし、この年の賞レースの各種新人賞を数多くもたらした。翌年2月5日に発売された「1986年のマリリン」では、“へそ出しルック”で激しく腰を振って踊る歌唱姿が大きく注目を集め大ヒットとなった。本田は元々アイドルと呼ばれることに抵抗があったようで、アーティストと呼ばれたいと発言したこともあった。また、「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しくてさらに強く個性を出そうとした結果、より過激な演出になったのだという[5]。後年の本人談では、10代の当時は大人っぽく見えるよう背伸びをしていた面もあると語っている。

同年7月23日発売の「HELP」は公共広告機構(現:ACジャパン)のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された[10]。1987年(昭和62年)放送のドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された「Oneway Generation」(同年2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「孤独なハリケーン」(9月9日発売)を歌った。この3曲で本田にとってオリコンランキング最高位である2位を獲得した[11]。

洋楽からの影響

元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローやマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた[5]。デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。

この1986年(昭和61年)にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」をガイ・フレッチャー(ロキシー・ミュージックの元メンバー)のプロデュースにより制作した。ムーアとフレッチャーはこの年にロンドンで録音されたアルバム『CANCEL』にも参加している。この時にフランクフルトでのクイーンのコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた[12][註 3]。

この年には再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリストブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」を制作した。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあり、クイーンの担当だった宇都宮カズを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した[13]。シングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」は翌1987年(昭和62年)に発売され、英語版もイギリスをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた[註 4]。

ラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で1987年(昭和62年)に彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作した。このアルバムはアメリカでも発売された。

またこの年の7月にはジャマイカを訪れスライ&ロビーのライブにゲスト参加し、「HEART BREAK」と「EYE言葉はLONELY」(アルバム『Midnight Swing』収録)を歌った。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。

ロックバンドでの活動

本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い1988年(昭和63年)1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を忌野清志郎が手がけたことなどは話題となった。

SHOW-YAの提唱で開催されプリンセス・プリンセスなどとともに出演したNAONのYAONはこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑でもある。初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆される。

ミュージカル女優として

ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年(平成元年)秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している[5]。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティ番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。

東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた[註 5] 時も初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。1990年(平成2年)秋に始まったオーディション(応募者は女性1万1503人、男性3584人、合格したのは女性20人、男性38人)の選考は6ヵ月間7次に亘り[14]、翌1991年(平成3年)1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた[5]。

アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。以後も『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。

沖縄戦におけるひめゆり学徒隊の悲劇を描いたミュージカル座制作の『ひめゆり』ではヒロインのキミを演じた。東宝以外の制作によるミュージカルは初の出演だったが、作曲、編曲、音楽監督を担当したのは『ミス・サイゴン』で本田のボイス・トレーナーを務めて以来縁のある山口琇也だった。プログラムに掲載されたメッセージ[15] では「会場に足を運んでくださった方々に、戦争の恐ろしさ、平和でいられる事のありがたさを、少しでも感じて頂けたら嬉しく思います」と述べていた。

シェイクスピアの『十二夜』を原作とするミュージカル『十二夜』ではプロデューサーの酒井がセリフに苦手意識のある彼女のために原作にないネコの役を用意した。本田は自分に割り当てられた役が人ではなかったことにとまどいつつも、言葉を喋らない代わりに人間の会話は理解できるという設定を自分の中で用意して真剣に役作りをした[5]。この作品が制作されたのはすでに本田がクラシックの楽曲を歌い始めていた時期で、彼女のパートはソプラノ的な唱法を想定して作られている。没後の再演では彼女が歌ったナンバーはアンサンブルによる歌唱や器楽演奏に置き換えられていた。

サザンオールスターズの楽曲をベースに桑田佳祐による書き下ろしを加えて作られた『クラウディア』は岸谷五朗と寺脇康文の主催する演劇ユニット、地球ゴージャスによる初めてのミュージカルで、彼女がそれまで出演してきた作品とはスタッフの顔ぶれも制作手法も異なるものだった。しかし本田は稽古の際のマット運動でむち打ちになるなどのトラブルに遭遇しながらも、仲間意識を最も大切にする岸谷の方針を共有しつつ役柄を作り上げていった。「可憐であり、けなげであり、強さも持っている」と岸谷が評した[5]ヒロイン、クラウディアの演技が彼女にとって最後のミュージカル出演となった。

ミュージカル期のスタジオ録音

本田は主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。その中でも特にマーキュリーレコード在籍時に制作された2枚のアルバムが重要である。

ロックバンド時代の前作『豹的 (TARGET)』以来5年ぶりとなるアルバム『JUNCTION』(1994年9月24日発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久(越路吹雪の担当ディレクターとしても知られる)と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当した岩谷時子をプロデューサーに迎え制作が進められた。タイトルの通り様々な音楽ジャンルの合流点となることを意図して制作されたこのアルバムはグレゴリオ聖歌を翻案した楽曲で幕を開け、前述の演歌をはじめシャンソン、ファド、チャールストンに分類され得る楽曲などが収録されている。先行シングルとして発売された「つばさ」(同年5月25日発売)は彼女の代表曲ともいうべき存在として親しまれている。

翌1995年(平成7年)に制作された『晴れ ときどき くもり』(6月25日発売)ではプロデューサーに牧田和男を迎え、山梨鐐平、宮沢和史、楠瀬誠志郎といったミュージシャンから楽曲提供を受けた。楠瀬とは「Fall in love with you -恋に落ちて-」でデュエットしている。この曲がシングルカットされた(11月6日発売)際のカップリング曲「あなたとI love you」(当時はアルバムに収録されず、後に『LIFE』で初めてアルバム収録となった)では作詞とともに彼女にとって初となる作曲を手がけた。牧田とは堅い信頼関係を築き、互いに兄妹のような存在としてその後も交流が続いた。

声楽への進出

本田は1996年(平成8年)にオペラの『蝶々夫人』を歌った[16]。彼女が初めて声楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。

前述の通り2000年(平成12年)前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは2002年(平成14年)8月31日に東京オペラシティコンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。声楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたコロムビアのプロデューサー、岡野博行はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。

コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である岩谷時子が日本語詞を書き下ろし毎回歌入れに立ち会って、場合によっては言葉が旋律に乗りやすいようにその場で変えるなど全面的にサポートした、編曲は井上鑑が担当した。井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている[5]。

一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった[5][註 6]。収録曲は100曲以上の候補の中から実際に歌いながら彼女自身の心に響く曲が選ばれた。本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会い、必ず一緒に歌って演奏者が歌の呼吸を掴んで弾きやすいようにしていた。そのまま歌を録り直さずOKになった曲もあった。クロスオーバー歌手としてのデビュー作『AVE MARIA』はこうして完成し、2003年(平成15年)5月21日にリリースされた。

翌2004年(平成16年)11月25日には2枚目のアルバム『時』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった[18]。こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動により、本田は従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。

ジャズへの見果てぬ夢

本田は2001年(平成13年)にNHK総合テレビで放送されたテレビドラマ『ハート』にアメリカ帰りのジャズ・シンガーという設定の役で出演した。劇中のライブ・シーンで本田はジャズ・ピアニストの西直樹の率いるバンドと共演し、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」(キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの共作でアレサ・フランクリンの歌唱によって知られる)と「I Feel the Earth Move」(キャロル・キングの作でキャロル自ら歌った)の二曲をジャズ風のアレンジで歌った。おそらくこの時の縁がきっかけで西のアルバム『JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ』の収録曲「SWEET MEMORIES」(松田聖子の曲)にスキャットで参加した。また、40代になったらジャズを歌いたいと語っていたという[19]。

影響関係

『ミス・サイゴン』への出演をきっかけに訳詞を担当していた岩谷時子と懇意になった。岩谷は本田の歌手としての力量を高く評価し、かつてマネージャーを務めていた越路吹雪と重ね合わせて見ていたようである。この後本田は前述の「風流風鈴初恋譚」のほか、「つばさ」など、岩谷からの詞の提供を数多く受けるようになる。後にクラシックアルバムを制作するにあたっても日本語詞の多くを岩谷が提供している。

また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことから越路吹雪への強いあこがれを抱くようになった。越路のような表現力を持つ歌手になりたいと語っていた[20]。アルバム『JUNCTION』では越路の代表曲である「愛の讃歌」と「アマリア」をカバーしている。

もう一人本田の歌手活動に大きな影響を及ぼした人物としてサラ・ブライトマンの名が挙げられる。インタビューなどでは度々サラへのあこがれを口にしていた。ミュージカルで大成した後クラシックの楽曲に取り組み、クラシカル・クロスオーバーというジャンルの隆盛をもたらしたサラの存在は、クラシックへの志向を強めていた本田の進路決定に際し道しるべのような役割りを果たしたものとされる。

歌唱技術

あどけない顔立ちと華奢な体からは想像できないような実力の持ち主であった[1]。デビュー当初から歌のうまいアイドルとして評価されており、森川美穂や中森明菜同様、アイドル界1の歌唱力があったと言われる。

本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。声楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。

『ミス・サイゴン』でキム役をダブルキャストで務めた入絵加奈子は当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している[21]。しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んでこれをこなした。同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』にはファルセットを多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域のスキャットを披露している。

本田は音楽学校などで声楽を学んだ経験はないが、ミュージカルに出演するようになってからは山口琇也や岡崎亮子のレッスンを受けた。特にオペラへの出演経験もある岡崎の指導はクラシカル・クロスオーバーへの進出に大きな影響のあったものと思われる。岡崎は最初に会った時本田のあまりに華奢な体つきに不安になったが、背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したという[5]。1994年発表の「つばさ」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがあるが、この伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった。

音域は最終的には3オクターブに達していた。これは例えば通奏低音パートも含めて一人で歌った「パッヘルベルのカノン」(アルバム『時』所収)に遺憾なく発揮されている。しかも本田はその広い音域を均質な響きで発することができた。『レ・ミゼラブル』での共演以来公私ともに親しくしていた森公美子は、普通の歌手には存在する“チェンジ”と呼ばれる地声と裏声が切り換わるポイントが彼女の場合にはどこにあるかわからないと指摘している。

演奏家には何度演奏しても同じように演奏するタイプと、その場の感興に応じて表情を変化させていくタイプがあるが、本田は典型的な後者のタイプだった。一連のクラシックアルバムで編曲を務めた井上鑑は「彼女の場合はまわりが変わると、その変化を反映していくような感性を持っている」と評し、プロデューサーの岡野博行は「毎回歌うたびに、表情もすごく変わる」、「その歌の世界を生き、自分に起きてくる感情をすごく大切にして歌っていた」と語った[5]。本田自身はミュージカルのロングランでもテンションが落ちない理由について「何百回やっても毎回違うからちっとも飽きない」と語っていた[22]。

作詞・作曲

「愛が聞こえる」(シングル「勝手にさせて」(1989年5月31日発売)のカップリング)で初の作詞を手がけたのを皮切りに多くの詞を残している。「あなたとI love you」(シングル「Fall in love with you -恋に落ちて-」(1995年11月6日発売)のカップリング)では作詞とともに初の作曲を手がけた。これを含めて生涯に3曲を作曲している。

人物

人柄

彼女は幼い頃から暮らした朝霞の街を愛し、デビュー後の数年間事務所社長の高杉の自宅に下宿していたほかは朝霞市の実家から仕事に通っていた。帰りが遅くなっても母親の手料理を食べるのが習慣だった。自宅でお気に入りの座椅子に座って窓からけやきの木を眺めるのを好み、近くの緑の多い風景の中を散策するのを楽しみとしていた。気さくな人柄から近隣の住民にも慕われており、後述の通り地元商工会の発案で朝霞駅前に記念碑が建設されたのはその表れでもある。朝霞警察署の一日署長を務めたこともある。

デビュー初期はアイドル歌手として活動したが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人びた歌謡曲の「殺意のバカンス」に変更された。日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる[独自研究?]。

その一方で「やっほー」があいさつ代わりの天衣無縫な振る舞いでも知られていた。しかし出演した映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の音楽監督、渋谷森久との出会いをきっかけに落ち着いて人と接するようになっていった[20]。以前の自分自身については「わがままだった」と述懐している。また『ミス・サイゴン』への出演も歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上において大きな転機となった。大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという過程を通じて人との共同作業に喜びを見出すようになっていったようである。生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える[23]。

人との絆を大切にする人であったことは毎年正月にわざわざそのための休みをとって2000枚の年賀状を自ら書いていたことにも表れている。メッセージなどの末尾には必ず「心を込めて...」の言葉を添えていた。この言葉は没後に発売されたアルバム『心を込めて...』のタイトルに採用された。ファンを大切にし、いつも「一緒に青春しようね」と呼びかけていた。「青春」は彼女が大切にしていた言葉であり、公式ファンクラブの名称「Blue Spring Club」は「青春クラブ」を訳したものである。

生涯子供を持つことはなかったが、とても子供好きであったことが知られている。『ミス・サイゴン』の楽屋では子役で出演する子供たちを我が子のように可愛がり、ファンクラブの会合にファンが子供を連れて行くと大喜びしていた。姪や甥には「ママ」と呼ばせて愛情をそそいだという[24]。

歌への情熱

『ミス・サイゴン』での事故

『ミス・サイゴン』の公演開始(5月5日)から2か月ほど経った1992年(平成4年)7月4日、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。

病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3か月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日にケガから1か月足らずで復帰を果たしたが、完治はしておらず特製ギプスを装着しての復帰だった。

歌に捧げた人生

デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」と度々話していたという[25]。

アルバム『AVE MARIA』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」とあいさつした。

舞台には歌の神様がいると話し[26]、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた[27]。2004年(平成16年)12月22日のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない開演前の舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している[5][註 7]。

本田の療養中に発売されたミニアルバム『アメイジング・グレイス』のライナーノートには手書きのメッセージを寄せ、次のように述べていた。

私は今まで、歌と一緒に歩んできました。…私の歌が皆さんに、歌の素晴らしさを伝えることができるよう... 1人でも多くの方の心が豊かになれるよう... という願いを込めて これからも、歌い続けたいと思います。

—本田美奈子.,ミニアルバム『アメイジング・グレイス』

復帰を目指して

白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた[28]。臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。

本田の入院中に恩師の岩谷時子が路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があり、岩谷は本田と同じ病院に運び込まれた。無菌室から出ることができなかった本田は岩谷を励ますため、病室でア・カペラで歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷の病室に届けていた。この録音は全部で三十数曲にも上った。そのいきさつは2008年(平成20年)のNHKの特集番組、及び同年出版の書籍で紹介され、一部の音源はCDとして発売された(後述)。

38歳の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。

再入院後のある日、見舞いに来た知人がたまたま誕生日だったので居合わせた一同で「ハッピーバースデートゥーユー」を歌った。これが本田の歌った最後の歌となった[24]。

手記・歌詞に綴られた言葉

本田は数多く詞を手がけているほか折りにふれ感じたことを手記に残しており[29]、それによりその思想の一端を窺い知ることができる。

自然・平和への愛

自然が人の手により破壊されつつある現状には深い関心を寄せていた。「地球へ」と題する手記では子供の頃に朝霞に残る豊かな自然の中で遊んだ思い出を振り返りながら、人と自然との共生への祈りのような思いを書き綴っている。実生活でも自宅近くに市民農園を借りて野菜を作り、そこで近隣の人たちとの交流を楽しんだり、とれた野菜を仕事仲間と一緒に食べたりと自然とふれ合う暮らしを実践していた。

自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『AVE MARIA』所収)は平和への祈りの歌である。2004年(平成16年)にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ[15] ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながらときを過ごすことの大切さを語りかけている。

小さな幸せ・時

この「小さな幸せ」は晩年の本田が好んで用いていた言葉であり、この言葉をタイトルにした手記も残している。日々の生活の中で当り前のようにそこにある小さな幸せに気づくことが大切だとくり返し述べていた。発病後一時退院を許されていた時に高杉と家の近くを散歩していて、蒸し暑さに不平を言う高杉に風を感じる幸せを教えさとしたというエピソードも伝えられている[5]。2004年5月14日放送の『たけしの誰でもピカソ 本田美奈子そのソプラノボイスの魅力に迫る!』で紹介された恩師岩谷時子の手紙からは、この「小さな幸せ」は岩谷の教えであることが窺われる。

そしてこの言葉は「時」という主題への関心と結びついていたようである。最後のオリジナル曲となった「時-forever for ever-」は本田が岩谷に名前の一字をとって「時」というタイトルの詞を書いて欲しい、と発注して生まれたものであり、この歌はアルバムのタイトルトラックになった。このアルバムに収められたドヴォルザークの交響曲に自ら詞をつけた「新世界」や、本田の書き残した言葉を元に作られた追悼曲の「wish」も時を主題とした歌と見做すことができる。

評価

生前の受賞・ランキングなど

デビューした1985年(昭和60年)には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の日本レコード大賞(第27回)では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった[註 8]。

オリコンチャートで1位を獲得したこともなく、最高位は「HELP」「Oneway Generation」「孤独なハリケーン」の2位。累計24万枚超を売り上げ、彼女の最大のヒット曲となった「1986年のマリリン」は3位が最高だった[11]。『ザ・ベストテン』でも1位を獲得したことがなかった[註 9]。

日本のポップス歌手にとってステイタス的な存在である『NHK紅白歌合戦』への出場もなかった。

本田にとっては『ミス・サイゴン』での演技を評価されて受賞した1992年度のゴールデン・アロー賞の演劇新人賞が生前に受けた最も大きな表彰といえるかも知れない。なおこのほかの生前の受賞として1987年第4回ベストジーニスト賞一般選出部門、2003年第2回日本ゆかた大賞というファッション関係の賞がある。

没後の表彰など

38歳での夭逝は本田の評価やCDの売上げにも大きな変動をもたらした。死亡する半月程前に発売されたミニアルバム『アメイジング・グレイス』は売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破し、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコンTOP10入り(7位)を記録した。『AVE MARIA』は22位、『時』も39位まで上昇している。また、同じ歌手のアルバムでポップスとクラシックの両方共TOP10入りしたのも初のケースである[30]。

本田の死を受けて日本レコード大賞(第47回)は特別功労賞を、ゴールデン・アロー賞は芸能功労賞を贈呈した。ゴールデン・アロー賞芸能功労賞受賞時の年齢38は、芸能功労賞の前身に当たる特別賞を受賞の松田優作(1989年度)の40(戸籍上は39)を下回る、物故者最年少受賞となった。尚、ゴールデン・アロー賞は、この他、前述の演劇新人賞を含め、音楽新人賞(1985年度)、グラフ賞(1986年度)と計4度受賞している。

記念碑が建設された朝霞駅前。時計塔の右下の部分にあるのが記念碑

幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて東武東上線朝霞駅の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の商工会の発案で企画されたもの。生誕40周年に当たる2007年(平成19年)7月31日に本田の母、所属事務所社長の高杉敬二、親友の早見優らの臨席の元、除幕式が行なわれた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「新世界」の歌声が流れる仕組みになっている。

関係者・評論家等の声

アイドル時代に本田の楽曲の歌詞を数多く手がけた秋元康は、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえ、本田のプロ意識の高さを評価していた。テレビのインタビューに答え、「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた。

『ミス・サイゴン』でエンジニア役として共演した市村正親は、本田の没後に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた[20]。彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の服部克久は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた[31]。『ミス・サイゴン』でボイストレーナーを務めた山口琇也は彼女の第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語った[32]。『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』の作曲者、クロード=ミシェル・シェーンベルクは『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、「日本で役を育ててくれた本田美奈子を思い出してもらいたい。彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」と述べた[33]。

『クラウディア』での共演を通して親しくなったYU-KIは、2004年(平成16年)12月の『Act Against AIDS』における本田の「ジュピター」と「1986年のマリリン」の歌唱を舞台の下手で聴き、「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」を受けたと話した[5]。

音楽評論家の伊熊よし子はクラシカル・クロスオーバーの領域で本田が新たに開拓した音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した[18]。編曲を務めた井上鑑は彼女の音楽のあり方を、「一夜限りで消えてしまうような祭礼ではなく一輪の花の美しさが突然人の心をとらえて何時までも面影を残すような、そんな奇跡が当たり前のように毎日起きていた」と形容した[34]。

交友関係

デビューまで

東京成徳短期大学附属高等学校普通科在学中にスカウトされ、芸能界デビューのため堀越高等学校に転校した。堀越の同級生にはいしのようこ、岡田有希子、長山洋子、南野陽子、森奈みはるらがいた。南野とは編入試験で席が隣同士になったのを機に親しくなった。デビュー当初からドラマに重点を置いて活動してきた南野とは一緒に仕事をする機会は多くなかったが、互いの仕事の内容から私生活のことまで何でも話せる、本田にとって無二の親友だった。また、岡田有希子とも仲が良かった。

当初はボンド企画社長の高杉敬二の自宅に下宿し、高杉の家族の一員のように過ごした。本田は高杉を“ボス”と呼びならわし、互いに父娘のような存在としてボンド企画倒産などの危機も乗り越えて最後まで活動をともにした。高杉の娘、河村和奈は本田を“おねえちゃま”と呼んで慕っていた[28]。

当時ボンド企画には多くの著名なタレントが所属しており、先輩の松崎しげる、松本伊代や福永恵規などと親しく交流するようになった。芸名は本田より先にデビューしてすでに名前を浸透させていた工藤夕貴[註 10] と名前が被らないようにとの配慮と、世界的に活躍してほしいという意味を込め、世界にその名を知られる自動車メーカーであるホンダ[註 11] にちなんで付けたと言われている。

歌手活動が結んだ縁

坂本冬美とは東芝EMIの広報担当者が同じだった縁で親しくなった。テレビ東京系列で放送された旅番組『鎌倉の旅』の撮影で二人で鎌倉めぐりをしたほか、『東京フレンドパークII』に二人で出演しゲームに興じたこともある。本田の一周忌に朝霞市で開催された追悼イベントでは坂本が本田の遺した「ありがとう」と題する詩を朗読した。

数々のミュージカルへの出演は共演者たちとの友情を育んだ。『ミス・サイゴン』でクリス役を演じた岸田敏志とは兄妹のように親しくなった。本田は岸田のことを彼のヒット曲の歌詞にちなんで“モーニン”と呼んでいた。

『レ・ミゼラブル』への出演はそれまで接点のなかった先輩歌手たちとの公私にわたる交遊をもたらした。岩崎宏美は舞台への不安から睡眠薬なしには眠れなくなってしまった自分を本田が絶えず気にかけてくれたことへの感謝の思いを繰り返し口にしている。食べることの好きな森公美子は本田と食事した思い出を楽しそうに語る。森の証言では本田は細身の体に似合わず森と同じ量を食べたという。アイドル歌手としての先輩である早見優はミュージカルの世界では本田の方が先輩にあたり、うまく歌えなくて落ち込んでいるときに励ましてくれたと話す。楽屋でホットケーキを作ってくれた際には、できあがったケーキのあまりにも完璧な丸さに「何事にも一所懸命な人」であることを思い知らされたという[35]。

『クラウディア』への出演は共演のYU-KIとの友情を育んだ。本田がYU-KIに「白い恋人達」の歌い方を尋ねてきたことがきっかけで打ち解けるようになったという。公演の合間には二人でワインを開けたりショッピングを楽しんだりした。

療養生活を支えた絆

本田の入院が伝えられると各方面から励ましのメッセージが寄せられた。ファンティーヌ役で出演予定だった『レ・ミゼラブル』2005年公演の出演者、スタッフからは大きな紙一面に書き込まれた寄せ書きが贈られた。工藤夕貴、YU-KI、伊藤有希の“3人のゆうき”(いずれも『クラウディア』2005年公演の出演者)からはデビュー20周年の記念に「美奈子TV」と題するビデオレターが届けられた。市のイメージソングを歌った縁でひたちなか市の小学生たちからは名前に因んで37,500羽の折り鶴がプレゼントされた[5]。

同時期に白血病と診断され入院したお笑いコンビ「カンニング」の中島忠幸[註 12] とは互いに文通で励まし合っていた。中島への手紙の中で、本田は病気になったことで自分がいかに人から愛されていたかを思い知ったと述べていた。

クラシックアルバムで編曲を担当していた井上鑑は本田の入院中に復帰第一作となる楽曲をプレゼントした。当時福山雅治のコンサートツアーに同行していた井上はバンドのメンバーの協力を得てデモDVDを作成し病床の本田の許に届けた。福山のデビュー当初からのファンだった[註 13] 本田は泣いて喜んだという。

没後の動向

病死への反響

38歳の若さでの本田の死は社会に衝撃をもって受け止められた。本田の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列した。彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになった。

葬儀で弔辞を述べた岸谷五朗やテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った岸田敏志、通夜に参列した後会見を行った南野陽子などが追悼のコメントを寄せた。海外ではブライアン・メイが彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに2日に亘り掲載した[36]。

もう一人本田の訃報に反応を示した外国の音楽家がフィリッパ・ジョルダーノだった。本田は彼女のコンサートを聴きに行き、終演後に楽屋を訪ねて話をしたことがあった。彼女は2005年(平成17年)12月の日本でのクリスマスコンサートで、そうした経緯について説明した上で「ミナコ・ホンダに捧げる」としてシューベルトの「アヴェ・マリア」を歌った[37]。

2005年(平成17年)12月16日にはフジテレビで追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』が放送された。これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。生前公私ともに親しくしていた岩崎宏美がナレーションを務めた。ほかにこの年のうちに『たけしの誰でもピカソ』、『題名のない音楽会21』、『ミュージックフェア21』、『徹子の部屋』などでも追悼特集が組まれた。翌2006年(平成18年)には『ドリーム・プレス社』でも追悼特集が放送された。『たけしの誰でもピカソ』ではさらに一周忌に合わせて二週にわたる詳細な特集が放送された。

テレビの訃報では「アメイジング・グレイス」を歌うライブ映像が繰り返し流された。また2006年(平成18年)7月から1年間公共広告機構(現:ACジャパン)の骨髄バンク支援キャンペーンに起用され、テレビ、ラジオのコマーシャルでは入院中に病室でア・カペラで歌った「アメイジング・グレイス」が流された[38]。このため日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている[39]。

未発表音源など

本田はデビュー20周年に当たる2005年(平成17年)に記念アルバムを制作することを予定し、一部は前年のうちに録音が進められていた。しかしその後の病気の発覚と間もなくの急逝により実現することはなかった。それでも関係者の熱意により未発表の音源や放送局に残されていたものを集め、2006年(平成18年)4月20日に一年遅れの記念アルバム『心を込めて...』が発売された。本作では、クイーンのギタリスト、ブライアン・メイが1987年に本田に贈った「Golden Days」が、ブライアン・メイ自らの手によってリメイクされたほか、「天国への階段」、「見上げてごらん夜の星を」の未発表音源および初CD化となる楽曲4曲など全13曲が収録された[40]。

また同年12月6日には、マーベラスエンターテイメント(現・マーベラス)在籍時の未発表音源をボーカル・トラック以外は新たに録音し直してリミックスしたアルバム『優しい世界』が発売された。2007年(平成19年)4月17日にはアイドル時代の人気曲を中心に選曲されたベスト・アルバム『ANGEL VOICE』が発売された。これには Wild Cats を解散してソロに復帰した時期に制作されたものの未発表となっていたアルバムの音源が収録された。

入院中に岩谷時子のためにボイスレコーダーに吹き込んでいた歌唱の音源は、一部がフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介されたほか、2008年(平成20年)2月にはこの二人の対話に焦点を当てたNHKのハイビジョン特集『本田美奈子. 最期のボイスレター 〜歌がつないだ“いのち”の対話〜』が放送された[註 14]。このうち「アメイジング・グレイス」の録音は2006年(平成18年)7月から1年間公共広告機構(現:ACジャパン)の骨髄バンク支援キャンペーンのテレビ、ラジオのコマーシャルに使用され、2008年(平成20年)3月24日には配信限定で一般にリリースされた。2008年(平成20年)10月25日にはこのハイビジョン特集を元にした書籍『本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス』が出版され、付属のCDに「アメイジング・グレイス」を含む4曲が収録された。さらに同年12月10日にはこれらの音源のうち19曲を収録したアルバム『ラスト・コンサート』が発売された。

今も愛される歌声

本田は入院中、他の入院患者とのふれ合いやファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされていた。そして自らが病気を克服し再び元気な姿でステージに立つことが同じように難病に苦しむ人の希望になると考え、亡くなる半月ほど前の10月19日に難病患者を支援するための活動として“LIVE FOR LIFE”を立ち上げた。彼女の遺志は遺族や友人、関係者によって受け継がれ、現在はNPO法人として運営されている。この“LIVE FOR LIFE”の協賛により本田の追悼イベントが各地で開催されている。

子供好きな本田は自身の晩年期、子供が虐待などの被害者となる事件が増加していることに心を痛め、恵まれない境遇にいる子供たちのために何かできることはないかと考えていた[註 15]。この思いを叶えるため、2006年(平成18年)9月本田の遺族は彼女が生前使用していた車をインターネットオークションで売却し、その代金で埼玉県の児童養護施設20ヶ所に寝具100組を寄贈した[41]。

亡くなった翌年に岩崎宏美がカバーアルバムのシリーズ第3弾『Dear Friends III』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「つばさ」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。岩崎はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演したアルバム『PRAHA』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。岩崎は「彼女のために生まれた歌を、私も大事に、大切に歌い継いでいきたい」と述べている[42]。

大相撲の白鵬はファンからプレゼントされた本田のアルバム『アメイジング・グレイス』を愛聴している[43]。このことを知った本田の所属事務所は2006年(平成18年)の夏場所中に宮城野部屋を訪れて、この年の4月に朝霞市で行われた追悼展のグッズをプレゼントして激励した[44]。

井上鑑が入院中の本田に復帰第一作としてプレゼントした楽曲は彼女自身が作詞して歌う予定でいたが実現することはなかった。彼女の遺志を叶えるため、本田の書き遺した言葉をもとに一倉宏が歌詞を補作し、井上の呼びかけに応じて集まったミュージシャンが“INOUE AKIRA & M.I.H.BAND”の名義で追悼シングル「wish」(2006年11月1日発売)を完成させた。

ヘイリー・ウェステンラは2008年(平成20年)5月21日に本田の残された音源との仮想的なデュエットによる「アメイジング・グレイス」を収録したシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。本田の2004年(平成16年)のライブ映像と並んでヘイリーが歌うプロモーション・ビデオも併せて制作されている[45]。ヘイリーは「本田美奈子さんの歌手としての生き方を知り、彼女の歌う“アメイジング・グレイス”は、希望の心を歌っていると私は感じました」と語っている[46]。

同年11月5日には太田美知彦が「つばさ」のセルフカバーを発表した。このCDには同時に太田が本田のボーカル・トラックとデュエットしたバージョンと、愛・地球博の記念コンサートで本田と共演して以来交流の続いていた愛・地球博記念市民合唱団によるバージョンが併せて収録されている。また翌6日にはクラシック・アルバムの楽曲をボーカル・トラック以外を編曲し直してリミックスしたアルバム『ETERNAL HARMONY』が発売された。このうち「アメイジング・グレイス」はブライアン・メイが編曲・録音を担当した。メイは「すべてのブレスや発音が聴き手に漏らさず届くように完成させました」と述べている[47]。

本田を扱った作品

舞台

minako-太陽になった歌姫-(2017年5月、CBGKシブゲキ!!)[48]

総合監修は高杉敬二、作・演出は野沢トオルが担当。主演は田村芽実(元アンジュルム)。

本田美奈子.ミュージアム

2018年7月31日、埼玉県朝霞市膝折町にて、「本田美奈子.ミュージアム」がオープンした。

ディスコグラフィ

「本田美奈子.のディスコグラフィ」を参照

トリビュート

wish(2006年11月1日)

出演

舞台(ミュージカル)

ミス・サイゴン (東宝・帝国劇場、1992年 - 1993年) - キム 役

屋根の上のバイオリン弾き (1994年、1998年) - ホーデル 役

王様と私 (青山劇場・帝国劇場)(1996年、1999年、2000年、2002年) - タプチム 役

レ・ミゼラブル (東宝・帝国劇場、劇場・飛天、中日劇場、1997年 - 2001年) - エポニーヌ 役 [註 16]

ひめゆり (ミュージカル座、2002年、2004年) - キミ 役 [註 17]

十二夜 (帝国劇場、2003年) - ねこ 役

クラウディア (日生劇場・大阪フェスティバルホール他、2004年) - クラウディア 役 [註 18]

映画

パッセンジャー 過ぎ去りし日々(1987年) - 立木美奈 役

Vシネマ

ダンディーとわたし(1991年)

実録日本ヤクザ抗争史 鯨道4 残侠譜 完結編(2001年)

テレビドラマ

連続ドラマ

パパはニュースキャスター(1987年1月9日 - 3月27日、TBS)

主題歌として『Oneway Generation』を歌うシーンが毎回流れると共に、第1話では本人役でゲスト出演した。

陽のあたる場所(1994年1月13日 - 3月24日、フジテレビ) - 小林昌美 役

遠山金志郎美容室(1994年7月9日 - 9月24日、日本テレビ) - 栗原千秋 役

妊娠ですよ(1)(1994年10月10日 - 11月14日、フジテレビ)

ハート(2001年9月3日 - 11月5日、NHK総合) - 結城苑子 役[49]

単発ドラマ

微熱MY LOVE(1985年11月18日、フジテレビ・月曜ドラマランド) 主題歌:『Temptation(誘惑)』

フローズン・ホラーショー(1987年5月18日、フジテレビ・月曜ドラマランド)

名無しの探偵(7) 愛の幻影(1990年10月9日、日本テレビ・火曜サスペンス劇場) - 江本美奈子 役

実録犯罪史シリーズ 新説・三億円事件(1991年12月27日、フジテレビ)

夢の帰る場所 愛と疑惑のサスペンス (1994年2月21日、フジテレビ) - 歌手のミナ子 役

TEARS 第20話「恋のゆくえ」(1999年2月18日、テレビ朝日) - 静子 役

テレビ司会

スーパーシティウォーカー 〜大都会の遊び方〜(2001年10月5日 - 2002年3月29日、全26回、BS朝日) - パックンマックンとMCを務めた30分番組

特別番組

追悼特別企画 天使になった歌姫 本田美奈子. 〜夢と闘いの38年〜 (2005年12月16日、フジテレビ・金曜エンタテイメント)

ラジオ

ジェミニ・ミュージックパートナー ときめいて美奈子(1985年10月12日 - 1986年4月5日、TBSラジオ)[3]

ラジオDE ME HER ヤングアイドル・ナイトパーティ(1985年10月11日 - 1986年4月4日、文化放送)[3]

KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ(1985年5月1日 - 1985年10月31日 、ニッポン放送 竹沢るり子の後任)[3]

とびだし美奈子とそれゆけおぼっちゃま(ニッポン放送)[3]

Spirit of the radio with Minako(1989年4月1日 - 1990年4月1日)

本田美奈子 Blue Spring Club(1996年、FM新潟をキーステーションにFM秋田・FM福井・FMとやま・FM中九州・FM青森・FM岩手・FM徳島・FM香川・FM鹿児島をネット)

CM

東芝EMI

2ndシングル 「好きと言いなさい」 

4thシングル 「Temptation(誘惑)」

5thシングル 「1986年のマリリン」

7thシングル 「HELP」

8thシングル 「the Cross -愛の十字架-」

3rdアルバム 「CANCEL」

4thアルバム 「OVERSEA」

カルビー 「ポテトチップス」

牛乳石鹸共進社

牛乳石鹸

シャワラン ビューティー シャンプー&リンス

お歳暮

グリコイメージキャラクター

キャデリーヌ(南野陽子との共演篇もある)

ジャイアントコーン(ジャイアント馬場と共演)

ポッキー(南野陽子との共演篇もある)

Hi-Brend(南野陽子と共演)

東芝イメージキャラクター

ホットカーペット ペルシャム

家具調こたつ

扇風機 イマージュ

リモコンWalky

ジュースメーカー

インバーターファンヒーター

ゆうゆう夏まつり

CDコンポV34X

Aurex L200

AUREX CDラジカセ・RT-CDW7X

SUGAR CDラジカセ

CDラジオカセット・SUGAR CD(RT-CD1)

企業CM(東芝ストアー(各県東芝会加盟店)のキャンペーンCM)

佐藤製薬

ストナエース

ストナエース・ソフトカプセル

ストナリニ

労働金庫(ろうきん)

ローソン

オッペン化粧品(企業CMで、本人がCMソング「つばさ」を熱唱しながら出演)

公共広告機構(現:ACジャパン)

しらんぷりもいじめ(1986年7月 - 1987年6月)

骨髄バンク支援キャンペーン(2006年7月 - 2007年6月)

埼玉県 「魅力いっぱい! ”彩の国”さいたま」

広告

青葉台東急スクエア

朝霞警察署

オートラマ

サッポロエージェンシー 「かんぞう奉行」

書籍

エッセイ

『果汁120パーセント―本田美奈子エッセイ集』角川書店〈角川文庫 緑 648-1〉、1985年12月10日。ISBN 9784041648018。 

『その気になって―カッ飛んじゃおうゼ』ワニブックス〈青春ベストセラーズ〉、1986年7月10日。ISBN 9784847010361。 

『天国からのアンコール vol.1 1986年のマリリン』ゴマブックス、2006年4月20日。ISBN 9784777103812。 

『天国からのアンコール vol.2 2006年のマリリン』ゴマブックス、2006年4月20日。ISBN 9784777103829。 

写真集

山岸伸『好きといって…』講談社〈別冊スコラ 27〉、1985年8月20日。ISBN 9784061749276。 

玉川清『あぶない危ない少女』ワニブックス、1985年11月5日。ISBN 9784847020292。 

玉川清『SPARKLING美奈子』日音、1986年3月20日。ISBN 9784543025041。 

玉川清『私・激(シゲキ)して―夏』音楽専科社、1986年5月31日。 

玉川清『明星特別編集 美奈子 BATHROOM ANGEL』集英社、1986年10月5日。 

田口顕二『CANCEL』シンコーミュージック、1986年12月15日。ISBN 9784401621255。 

ハービー・山口『WHAT'S』スコラ〈別冊スコラ 41〉、1987年10月26日。 

薮下修『APPETIZER(アピタイザー)』ワニブックス、1990年7月10日。ISBN 9784847021466。 

薮下修『SAIGON』大陸書房、1992年5月1日。ISBN 9784803341034。 

田口顕二『時間のない島』竹書房、1995年10月20日。ISBN 9784812400043。 

『本田美奈子.メモリアル』近代映画社、2005年12月10日。ISBN 9784764820623。 

スクロール 著、アサヒカメラ編集部 編『本田美奈子写真集・10年目の「ありがとう」』朝日新聞出版、2015年10月20日。ISBN 9784023314603。 

楽譜

『ボーカルスコア AVE MARIA』ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス、2003年6月12日。ISBN 9784636206883。 

『ボーカルスコア 時』ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2004年12月18日。ISBN 9784636203950。 

『ボーカルスコア 心を込めて…』ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2006年11月9日。ISBN 9784636811391。 

伝記

『天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生』ワニブックス、2007年5月20日。ISBN 9784847017230。 

本田美奈子、岩谷時子『本田美奈子.甦れアメイジング・グレイス―歌がつないだ“いのち”の対話』日本放送出版協会、2008年10月25日。ISBN 9784140394908。 

脚注

[脚注の使い方]

注釈

^ 「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われて2004年に本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.」をつけ改名。読みは変わらない。

^ ちなみにこの回のグランプリは松本が獲得した

^ この時点ですでにブライアン・メイのプロデュースによる楽曲制作は決まっていたらしい[5]。

^ この英語版では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている。

^ 酒井は『ミス・サイゴン』の担当ではなかったが、ロンドンでこの作品を見て一月も経たない頃に高杉、本田と会食する機会があり、彼女の印象がヒロインのキムと重なったことからオーディションへの参加を勧誘した。

^ 本田は情報誌プチぶんか村の2002年8月号に寄稿したエッセイ「小さな幸せを大切に…」の中で「私はいつも、『人の心を動かせられる様な歌をうたえる歌手になりたい』と思っています。…でも悲しい事に、最近、愛と心と情熱で、音楽を手作りでつくる人がとても少なくなってきてしまいました」と述べていた[17]。

^ この翌日に同じ会場で行われたコンサートが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。

^ この年の最優秀新人賞はTBS系列のテレビドラマ『毎度おさわがせします』に出演していた中山美穂が受賞した。

^ 『ドリーム・プレス社』の追悼特集ではスタジオに『ザ・ベストテン』放送当時のセッティングが用意され、最後に「アメイジング・グレイス」が9999点で1位として紹介された。

^ デビュー当初、工藤夕貴と従姉妹関係にあるという噂があったが、工藤は本田の没後の取材に対し「噂である」と否定している、ただしデビュー当時はよく似ているとは互いに言われたとの事。

^ 当時人気絶頂だった松田聖子がマツダにちなんで芸名をつけたと噂されていた[要出典]。

^ 中島も本田の急逝から約1年後の2006年12月20日に亡くなった。

^ 本名では迷惑がかかるからと友人の名前を借りてファンクラブに入会していたほどだった。

^ BS hiで2008年2月25日に放送。3月3日に同チャンネルで再放送されたほか、3月24日には再編集されたものが総合テレビで放送されるなど、その後も何度も再放送されている。またNHKがBS放送20周年を記念して行った視聴者のアンケートでも17位となり、BS二十歳の名作集として放送された。

^ アルバム『時』の発売の際の手書きの手記にはテレビの報道を見て知った水谷修の活動に感銘を受けたことを綴っている。

^ 2004年7月の東京芸術劇場及び梅田コマ劇場での「レ・ミゼラブル in コンサート」にもエポニーヌ役で出演した。2005年公演ではファンティーヌ役で出演を予定していたが病気のため休演を余儀なくされた。新たな代役は立てられず、同時にキャスティングされていたマルシア・井料瑠美が本田の出演予定日を務めた。

^ 2005年公演では『レ・ミゼラブル』でエポニーヌ役を本田とダブルキャストで演じた島田歌穂が代役を務めた。

^ 2005年公演ではプライベートでも親交のあった工藤夕貴が代役を務めた。

出典

^ a b c d e f g h i j 別冊宝島 2017, p. 91.

^ a b “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。

^ a b c d e 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、138頁。NDLJP:12276264/70。 

^ “最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去/復刻”. 日刊スポーツ. (2016年11月7日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1726384.html 

^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 天に響く歌 2007.

^ a b c d e f 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談 ゲスト:高杉敬二 がんサポート情報センター 2006年7月、2010年8月1日閲覧

^ “最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去/復刻”. 日刊スポーツ (2016年11月7日). 2023年10月24日閲覧。

^ 1990年4月22日放送の『ミュージックフェア』

^ 『スポーツニッポン』1990年11月1日

^ 1986年度作品|ACジャパン

^ a b “本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に!”. ORICON NEWS. (2006年4月20日). https://www.oricon.co.jp/news/19122/ 

^ 写真集『キャンセル』

^ “映画ヒットで思い出す、クイーンが愛した本田美奈子”. 日刊スポーツ. (2019年1月16日). https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/201901160000272.html 

^ 【新連載】 アイドルからクラシック・クロスオーバーまで ポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた20年|かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史|ダイヤモンド・オンライン

^ a b ミュージカル座のオフィシャルサイトの本田の追悼ページ に彼女の舞台での写真とともに掲載されている。

^ “「ミス・サイゴン」から「蝶々夫人」へ、初めてオペラのアリアを歌った日(1996年)”. ダイヤモンド社 (2012年10月19日). 2020年4月19日閲覧。

^ 本田美奈子 (2002年8月). “ぶんか村エッセイ(15) 小さな幸せを大切に・・・”. プチぶんか村 (ライン出版). http://rein2000.c.ooco.jp/2002-08.html#No2 

^ a b アルバム『AVE MARIA』のライナーノート

^ “本田美奈子の魅力、いつまでも輝き続ける永遠の歌姫”. Re:minder (2017年8月10日). 2020年4月19日閲覧。

^ a b c 『日刊スポーツ』公式サイトに掲載された 「おくやみ」

^ 入絵加奈子 ファンサイト に寄せられた入絵本人からのメッセージ

^ “本田美奈子.享年38〜急性骨髄性白血病(AML)が奪った3オクターブの美声!”. HEALTH PRESS. 2023年9月15日閲覧。

^ “田村芽実、芽吹いた和のココロ アイドルからミュージカル女優へ、重なる本田美奈子.の背中”. 夕刊フジ. (2020年4月18日). https://www.iza.ne.jp/article/20200418-IDEXMECS4JPO7LWB6JQMQ4J4HI/2/ 

^ a b 『女性自身』2007年4月17日号

^ “新世界 本田美奈子”. 音楽コラボアプリ nana (2016年10月4日). 2020年4月19日閲覧。

^ 「特集ワイド 会いたい・2019夏 本田美奈子.さん 声と魂で訴えた愛と平和」『毎日新聞』、2019年8月22日、東京夕刊。

^ “11月6日は本田美奈子が亡くなった日”. CHRISTIAN PRESS (2019年11月6日). 2020年4月19日閲覧。

^ a b 吉田寿哉のリレーフォーライフ対談/高杉敬二さん

^ 2006年1月22日山形交響楽団の有志によって行われた『本田美奈子.追悼 白血病撲滅チャリティーコンサート』で本田直筆の手記を印刷したパネルが展示されていた。

^ “本田美奈子.さん、驚異的なランクアップ!18年5ヵ月ぶりのTOP10入り!”. ORICON NEWS. (2005年11月22日). https://www.oricon.co.jp/news/2765/ 

^ 本田の一周忌に開催された追悼コンサートでのコメント

^ 『朝日新聞』2005年11月14日、東京夕刊、10ページ

^ 「進化続ける ミス・サイゴン」『読売新聞』、2008年7月25日。オリジナルの2008年7月30日時点におけるアーカイブ。

^ アルバム『心を込めて...』のライナーノート

^ “田村芽実、憧れの本田美奈子.さん役で女優として本格始動「天国の本田美奈子.さんに“私を選んで”とお祈りしてました」”. De☆View. オリコン・エンタテインメント (2017年2月16日). 2020年4月19日閲覧。

^ 現在でも公式サイトの 過去ログ で閲覧可能。

^ この時の模様は現在本田美奈子さんに捧ぐ - YouTubeで確認することができる。

^ 支援キャンペーン:本田美奈子.(公共広告機構公式ページ)

^ 本日出版!「アメージング・グレース」物語 ― ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝

^ “本田美奈子.のラストメッセージが未完の20周年記念盤に!”. ORICON (2006年4月20日). 2023年1月26日閲覧。

^ 『スポーツニッポン』2006年9月16日

^ アルバム『PRAHA』のライナーノート

^ 『スポーツニッポン』2006年1月14日

^ 『サンケイスポーツ』2006年5月22日

^ アメイジング・グレイス / ヘイリー duet with 本田美奈子. - YouTube

^ ヘイリー「アメイジング・グレイス duet with 本田美奈子.」について - サモンプロモーション・スタッフブログ

^ 本田美奈子.さんブライアンと“共演” - 芸能 - SANSPO.COM

^ “本田美奈子.の生涯綴る物語「minako-太陽になった歌姫-」上演決定”. ステージナタリー. (2016年12月5日). https://natalie.mu/stage/news/211982 2016年12月5日閲覧。 

^ 本田美奈子 - オリコンTV出演情報

参考文献

『天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生』ワニブックス、2007年5月20日。ISBN 9784847017230。 

『80年代アイドルcollection』宝島社〈別冊宝島 2611〉、2017年8月7日。ISBN 9784800271228。 

外部リンク

公式ウェブサイト

本田美奈子.(日本コロムビアのサイト)

“LIVE FOR LIFE”公式ページ

本田美奈子. - ビーエムアイによるページ

本田美奈子. - NHK人物録

本田美奈子.ミュージアム

本田美奈子.ミュージアム (@MinakoMuseum) - X(旧Twitter)

本田美奈子.ファンサイト MINAKO FAN WORLD - archive.today(2013年4月11日アーカイブ分)

表話編歴本田美奈子.シングル

オリジナル

1.殺意のバカンス - 2.好きと言いなさい - 3.青い週末 - 4.Temptation(誘惑) - 5.1986年のマリリン - 6.Sosotte - 7.HELP - 8.the Cross -愛の十字架- - 9.Oneway Generation - 10.CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS - 11.HEART BREAK - 12.孤独なハリケーン - 13.悲しみSWING - 14.あなたと、熱帯 (MINAKO with WILD CATS) - 15.STAND UP (Full Metal Armor) (MINAKO with WILD CATS) - 16.勝手にさせて (MINAKO with WILD CATS) - 17.7th Bird "愛に恋" - 18.SHANGRI-LA - 19.つばさ - 20.ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて - 21.僕の部屋で暮らそう - 22.shining eyes - 23.風のうた - 24.Honey - 25.ナージャ!! - 26.新世界

コラボレーション・シングル

1.Fall In I Love You -恋に落ちて-

スプリット・シングル

1.星空

デジタル・シングル

1.好きからはじめよう

アルバム

オリジナル

1.M'シンドローム - 2.LIPS - 3.CANCEL - 4.OVERSEA - 5.Midnight Swing - 6.WILD CATS (MINAKO with WILD CATS) - 7.豹的 (TARGET) (MINAKO with WILD CATS) - 8.JUNCTION - 9.晴れ ときどき くもり - 10.AVE MARIA - 11.時

企画

1.心を込めて... - 2.ETERNAL HARMONY - 3.ラスト・コンサート - 4.AGAIN

ベスト

1.MINAKO COLLECTION - 2.Look over my shoulder - 3.LIFE -Minako Honda. Premium Best- - 4.I LOVE YOU - 5.ANGEL VOICE 〜本田美奈子.メモリアル・ベスト〜 - 6.クラシカル・ベスト〜天に響く歌〜 - 7.Anthem of Life ~Sweet Ballads Best~

ミニ

1.アメイジング・グレイス - 2.優しい世界

出演

ミュージカル

ミス・サイゴン - 屋根の上のバイオリン弾き - 王様と私 - レ・ミゼラブル - ひめゆり - 十二夜 - クラウディア

テレビ・ラジオ番組

長崎歌謡祭 - ザ・ベストテン - パパはニュースキャスター - 魔法騎士レイアース - HUNTER×HUNTER - 明日のナージャ - たけしの誰でもピカソ - 題名のない音楽会 - ミュージックフェア - 徹子の部屋 - ドリーム・プレス社 - KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ - ラジオDE ME HER ヤングアイドル・ナイトパーティ

関連人物

高杉敬二 - 河村和奈 - 松本伊代 - 松崎しげる - 杏里 - 工藤夕貴 - 坂本冬美 - 秋元康 - 筒美京平 - 岩谷時子 - 島田歌穂 - 岸田敏志 - 市村正親 - 岩崎宏美 - 森公美子 - 早見優 - 牧田和男 - 服部克久 - 井上鑑 - 岡野博行 - 羽田健太郎 - 岸谷五朗 - 寺脇康文 - YU-KI(TRF) - 福山雅治 - 中島忠幸(カンニング) - フィリッパ・ジョルダーノ - ヘイリー・ウェステンラ

関連項目

本田美奈子.のディスコグラフィ - 朝霞市 - ボンド企画 - リブ・フォー・ライフ美奈子基金 - wish - NAONのYAON - ACジャパン - 急性骨髄性白血病 - 骨髄バンク

表話編歴FNS歌謡祭最優秀新人賞

1974(上期) 中条きよし「うそ」

1974(下期) 西川峰子「あなたにあげる」

1975(上期) 細川たかし「心のこり」

1975(下期) 岩崎宏美「ロマンス」

1976 内藤やす子「弟よ」

1977 高田みづえ「硝子坂」

1978 さとう宗幸「青葉城恋唄」

1979 倉田まり子「HOW! ワンダフル」

1980 田原俊彦「ハッとして!Good」

1981 近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」

1982 シブがき隊「100%…SOかもね!」

1983 THE GOOD-BYE「気まぐれOne Way Boy」

1984 岡田有希子「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」

1985 本田美奈子「Temptation(誘惑)」

1986 少年隊「仮面舞踏会」

1987 BaBe「I Don't Know!」

1988 大和さくら「王将一代 小春しぐれ」

1989 マルシア「ふりむけばヨコハマ」

1990 忍者「お祭り忍者」

1974年(上期・下期)は最優秀ホープ賞として発表。1991年からはショータイム形式に変更。

表話編歴ゴールデン・アロー賞 グラフ賞受賞者1960年代

67 西野バレエ団(金井克子,由美かおる,原田糸子,奈美悦子)

68 丸山明宏

69 浅丘ルリ子

1970年代

70 辺見マリ

71 池玲子

72 山本リンダ

73 由美かおる

74 西城秀樹

75 岡田奈々

76 松本ちえこ

77 夏目雅子

78 ピンク・レディー

79 榊原郁恵

1980年代

80 河合奈保子

81 柏原よしえ

82 美保純

83 田原俊彦

84 小泉今日子

85 沢口靖子

86 本田美奈子

87 南野陽子

88 浅香唯

89 井森美幸

1990年代

90 西田ひかる

91 観月ありさ

92 C.C.ガールズ

93 鈴木杏樹

94 瀬戸朝香

95 雛形あきこ

96 広末涼子

97 吉川ひなの

98 優香

99 本上まなみ

2000年代

00 釈由美子

01 井川遥

02 吉岡美穂

03 井上和香

04 岩佐真悠子

05 安田美沙子

06 ほしのあき

07 南明奈

開催終了。日本雑誌協会キャンペーンキャラクター選出は2013年度まで継続(以後、西暦はキャンペーンキャラクター担当年度)。

2009年,2010年代

09 佐々木希

10 桜庭ななみ

11 武井咲

12 剛力彩芽

13 能年玲奈

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子_百度百科 网页新闻贴吧知道网盘图片视频地图文库资讯采购百科百度首页登录注册进入词条全站搜索帮助首页秒懂百科特色百科知识专题加入百科百科团队权威合作下载百科APP个人中心本田美奈子播报讨论上传视频日本女演员、歌手收藏查看我的收藏0有用+10本田 美奈子(ほんだ みなこ、1967年7月31日— 2005年11月6日), [1]出生于日本东京都板桥区上赤冢町(现成增),本名工藤美奈子。 [1]20世纪80年代歌手、演员、偶像歌手,90年代以后主要以音乐剧活动,进入21世纪后以古典音乐为主要活动。 [1]2005年11月6日,本田美奈子因急性骨髓性白血病而去世,享年38岁。 [1]本    名本田美奈子外文名Honda Minako民    族大和族国    籍日本出生地东京都板桥区 [1]出生日期1967年7月31日逝世日期2005年11月6日毕业院校堀越高校星    座狮子座代表作品风之歌、SHANGRI-LA主要成就1984年第8回长崎音乐节最高奖职    业歌手原    名工藤美奈子 [1]目录1主要作品▪音乐单曲▪原创专辑▪精选专辑▪特别专辑▪原声带▪录影带2音乐专辑3出演电影4获奖记录5人物生平主要作品播报编辑音乐单曲合并图册(2张)杀意のバカンス (1985年4月20日)好きと言いなさい (1985年7月20日)青い周末(1985年8月31日)Temptation(诱惑) (1985年9月28日)1986年のマリリン (1986年2月5日)Sosotte (1986年5月1日)HELP (1986年7月23日)the Cross -爱の十字架- (1986年9月3日)Oneway Generation (1987年2月4日)CRAZY NIGHTS (1987年4月22日)GOLDEN DAYS (1987年5月11日)HEART BREAK (1987年6月22日)孤独なハリケーン (1987年9月9日)悲しみSWING (1987年11月25日)あなたと、热带(1988年7月6日),以“MINAKO with WILDCATS”名义。Stand Up~Full Metal Armor (1988年11月30日),以“MINAKO with WILDCATS”名义。胜手にさせて(1989年5月31日),以“MINAKO with WILDCATS”名义。"爱に恋" (1989年月11日)SHANGRI-LA(1990年7月4日)つばさ (1994年5月25日)ら・ら・ば・い~优しく抱かせて(1995年5月10日)仆の部屋で暮らそう(1995年7月26日)恋に落ちて(1995年11月6日)shining eyes (1996年7月21日)风のうた (1999年11月21日)Honey (2000年10月21日)星空 (2001年1月24日),和影山ヒロノブ/樱井智・横山智佐名义。ナージャ!! (2003年2月21日)新世界 (2004年5月14日) [2]原创专辑M'Syndrome (1985年11月21日)LIPS (1986年6月4日)CANCEL (1986年9月28日)OVERSEA (1987年6月22日)Midnight Swing (1987年12月16日)WILD CATS (1988年8月5日)以“MINAKO with WILDCATS”名义。TARGET (1989年7月5日)以“MINAKO with WILDCATS”名义。JUNCTION (1994年9月24日)晴れ ときどき くもり (1995年6月25日)AVE MARIA (2003年5月21日)时 (2004年11月25日)心を迂めて... (2006年4月20日)优しい世界 (2006年12月6日)精选专辑MINAKO COLLECTION (1986年12月20日)Look over my shoulder (1988年10月26日)LIFE -Minako Honda. Premium Best- (2005年5月21日)奇异恩典(アメイジング・グレイス) (2005年10月19日)I LOVE YOU (2006年3月29日)特别专辑现场实况专辑ザ・ヴァージン・コンサート (1986年2月20日)DISPA 1987 (1988年1月25日)其他专辑ゴールデンベスト (1987年6月5日)本田美奈子バラードコレクション (1989年6月7日)best now (1989年9月13日,1990年11月14日)SHANGRI-LA -BEST POP COLLECTION- (1990年12月12日)Stand up -BEST BEAT COLLECTION- (1990年12月12日)Big Artist Best Collection (1994年12月7日)TWIN BEST (1998年5月13日)2000 millennium BEST (2000年5月24日)Golden☆Best (2003年6月25日)NEW BEST 1500 (2005年8月24日)CD&DVD THE BEST (2005年12月7日)CD BOX美奈子・全仕事 (1987年8月5日)本田美奈子BOX (2004年12月15日)原声带パッセンジャー (1987年10月26日)西贡小姐 -日本公演精选版- (1992年4月8日)西贡小姐 -帝剧公演完全现场版- (1993年5月19日)国王与我 -特别公演全幕现场版- (1998年2月18日)第十二夜 -精选・现场录音版- (2003年11月14日)录影带The Virgin Live In BudokanDANGEROUS BOND STREETDRAMATIC FLASHDISPA 1987MINAKO in L.A.胜手にさせてTROPICAL HOLIDAYTROPICAL HOLIDAY In HAWAI音乐专辑播报编辑AGAIN [3]发行时间2015-10-8出演电影播报编辑1985年 微热MY LOVE1987年 フローズンホラーショー1987年 パッセンジャー 过ぎ去りし日々1991年 ダンディーとわたし 导演: 神代雅喜  出演: 本田美奈子 中山秀征 内田あかり本田美奈子2001年 鲸道4 残侠谱 完结编获奖记录播报编辑1984年第8回长崎音乐节最高奖第4回巨大都市音乐节(东京)最优秀新人钻石奖第11回日本TV音乐新人奖85全日本歌谣音乐节银奖第16回日本歌谣大赏优秀广播音乐新人奖第18回日本有线大奖新人奖(TBS)第18回全日本有线大奖新人奖(YTV)第23回日本唱片大奖新人奖(TBS)第23回流行音乐部新人奖第12回日本TV音乐节金之鸠奖ANB'86全日本歌谣音乐节最优秀奖第19回日本有线大奖有线音乐奖受奖(TBS)1987年音乐奖最佳'87第1位(女性部)2003年“第二回日本浴衣大奖”(三越剧场)等多数。2012年中国美奈子北京歌迷会授予本田美奈子“永远的歌姬”称号。人物生平播报编辑本田美奈子1967年(昭和42年)7月31日,本田美奈子出生于东京都板桥区上赤冢町(现成增)。后移居埼玉县朝霞市。小学六年级时在毕业文集上写着“女优か歌手になれたらイイ”。 [1]中学时报名参加了当时的选秀节目《明星诞生!》,并进入决赛,但是却没有被演艺公司挖掘。 [1]1983年(昭和58年)4月,进入东京都北区的东京成徳短期大学附属高中学习。7月,在原宿散步的时候,被东芝EMI星探发掘,从而进入了演艺圈。 [1]1984年(昭和59年)9月,用本名参加了第8届长崎歌谣祭,演唱了《梦少女》(作词:深田尚美,作曲:安格斯)并获奖。 [1]1985年(昭和60年)4月20日,以《杀意のバカンス》作为偶像歌手出道。12月7日,作为新人歌手在武道馆的演唱会也获得了成功,同年亦获得许多新人奖。 [1]1986年(昭和61年)2月5日发行《1986年のマリリン》,这首歌是本田最出名的歌曲。 [1]1988年(昭和63年),与WILD CATS组成女性摇滚乐队“MINAKO with WILD CATS”,后续发行《あなたと、热帯》、《WILD CATS》等歌曲。9月11日,出演由SHOW-YA企画的『NAONのYAON』演唱会。但乐队于次年(1989年)便解散了。 [1]1990年(平成2年),参与音乐剧《ミス・サイゴン》的试镜,从约1万5000人中被选为主角。 [1]1992年(平成4年)5月5日,《ミス・サイゴン》在日本首演。之后连续演出一年半,本人的歌唱能力和演技都获得了很好的评价。同年获得第30届“ゴールデン・アロー赏”演剧新人奖。 [1]1994年(平成6年),参演『屋根の上のバイオリン弾き』。 [1]1996年(平成8年),参演『王様と私』。 [1]1997年(平成9年),参演『レ・ミゼラブル』。 [1]2002年(平成14年),参演『ひめゆり』,这是首次出演日本本国制作的音乐剧。 [1]2004年(平成16年)末,本人开始持续出现类似感冒和低烧的症状。 [1]2005年(平成17年)1月12日,因检查出急性骨髓性白血病住院。之后,即使接受了两次化学疗法,也没有得到充分的缓解(癌细胞减少的状态)。据说是极为罕见的预后不良的抗治疗性白血病。 [1]5月,接受脐带血干细胞移植。7月,出院后病情复发。9月,再次住院,并接受进口的抗癌新药物治疗。 [1]11月6日,由于肺部并发症导致病情突然骤变,于上午4点38分去世,享年38岁。 [1]新手上路成长任务编辑入门编辑规则本人编辑我有疑问内容质疑在线客服官方贴吧意见反馈投诉建议举报不良信息未通过词条申诉投诉侵权信息封禁查询与解封©2024 Baidu 使用百度前必读 | 百科协议 | 隐私政策 | 百度百科合作平台 | 京ICP证030173号 京公网安备110000020000

本田美奈子の生涯・年表まとめ【代表曲や死因、性格、交友関係も紹介】 - レキシル[Rekisiru]

美奈子の生涯・年表まとめ【代表曲や死因、性格、交友関係も紹介】 - レキシル[Rekisiru] 宇宙史世界史日本史名言戦争事件ホーム音楽史本田美奈子の生涯・年表まとめ【代表曲や死因、性格、交友関係も紹介】 2022年2月22日本田美奈子さんは80年代アイドルとして活躍し、のちにミュージカルで名を馳せた歌手です。飛び抜けた歌唱力とヘソ出しルックなどの斬新なファッションでアイドルのイメージを払拭し、瞬く間に注目を集めました。本田美奈子さん同期デビューは中山美穂さん、南野陽子さん、おニャン子クラブなど壮々たる顔ぶれでしたが、中でも本田さんはプロ意識が高くアーティストとしてのこだわりを強く持ったアイドルでした。デビュー曲「殺意のバカンス 」も彼女の歌唱力が生かされた楽曲で、アイドルが歌う曲としては珍しいダークでクールなものでした。1990年代になると「ミス・サイゴン」のオーディションに合格したことを皮切りに、ミュージカル女優としての活動が話題になります。ミュージカルに出演する中でクラシック音楽にも興味を深め、日本語の歌詞を付けて歌うという新しいアプローチが新たなファンを獲得する事にもつながりました。この記事では、長年ミュージシャンとして音楽の世界に携わってきた筆者が、プロの目から見た本田美奈子さんの生涯について紹介します。 この記事を書いた人一橋大卒 歴史学専攻 京藤 一葉 Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。本田美奈子とはどんな人物か名前本田美奈子本名工藤美奈子誕生日1967年7月31日没日 2005年11月6日(38歳没)生地東京都板橋区没地東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院埋葬場所広称寺墓苑本田美奈子の生涯をハイライトインタビューを受ける本田美奈子さん本田美奈子は1967年7月31日に東京都板橋区の産院で生まれました。歌手を目指していた母親の影響で小さいころから歌を歌っていて、小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と記しています。高校に入学した年に初めて訪れた原宿でスカウトされ、芸能プロダクションの「ボンド企画」から芸能界に足を踏み入れました。ボンド企画はグループでのデビューを考えていましたが、本田の歌に才能を感じソロでデビューさせることに決めたと言います。1985年に「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビューを果たすと、翌年には「1986年のマリリン」をリリースします。へそを露出させた斬新な衣装や激しく腰を振る振り付けなども相まって大ヒットとなりました。踊る本田美奈子さん1990年代に入るとミュージカルでの活躍が目立つようになりました。「ミス・サイゴン」をはじめ「レ・ミゼラブル」などにも出演し高く評価されています。オペラなどを演じるうちにクラシック音楽への興味を深めていったのもこのころです。2000年に入り本格的にクラシックをやろうとしていた矢先の2005年に、急性骨髄性白血病と診断を受けます。2度に渡り化学療法を受けますが寛解には至らず、骨髄移植を受けました。しかし再発が認められ、健闘むなしく2005年11月6日に38歳の若さでこの世を去りました。本田美奈子の性格や人物像は?こだわりが強く信念を持った性格こだわりの衣装で歌う本田美奈子さん本田美奈子さんはデビュー当時からアーティストとしてのプロ意識が高く、自分の売り方に強いこだわりを持っていました。アイドルと言われることが嫌いでアーティストと呼ばれたいと発言したこともあります。楽曲の振り付けやステージでの衣装も自分で決めていたほどです。デビュー曲も本来アイドル色の強い「好きと言いなさい」を予定していましたが、本人の強い希望で大人びた歌謡曲風の「殺意のバカンス」に変更となりました。本田美奈子さんのデビュー・シングル「殺意のバカンス」しかし、そのこだわりの強さから来る態度や物言いが一部のファンや業界の人々の反感を買い、「生意気でわがまま」と言う印象を与えてしまったこともありました。晩年は性格の角も取れ、天使の歌声に象徴されるような穏やかで慈愛に満ちた人柄が印象的です。天使のような歌声天使のような歌声を披露する本田美奈子さん母親の影響で幼い頃から歌が好きだった本田美奈子さんは、デビュー当時から一目を置かれる歌唱力を持っていました。特にミュージカルに進出した頃からは歌唱指導も受けるようになり、その歌唱力に磨きをかけて行きました。歌唱指導を受ける前は裏声を使用した高い音域での歌唱やロングトーンなどを苦手としていたと言いますが、見事に克服し1994年発表の「つばさ」では10小節にも及ぶロングトーンを披露しています。人々の心に直接語りかけるような優しく温かなその歌声は、まさに天使の歌声だと称されました。亡くなった後の2005年12月に放映された本田さんのドキュメンタリー番組にも「天使になった歌姫」というタイトルがつけられています。元祖へそ出しルックで話題にへそ出しルックの衣装1986年に発売された「1986年のマリリン」で本田美奈子さんが着用した衣装は、おへそを出した露出度の高いものでした。彼女自身のアイデアで制作されたこの衣装は、当時ステージでの振り付けや衣装の参考にしていたマドンナから影響を受けていました。露出度の高い衣装と激しく腰を振る振り付けが、視聴者に衝撃を与えたことで大きな話題となり「1986年のマリリン」のヒットにもつながりました。当時のアイドルは清純派が多く、本田さんは異例の改革派のアイドルでした。マドンナ現在、彼女の衣装の一部は本田美奈子ミュージアムにて展示・保管されています。死因は急性骨髄性白血病闘病中の本田美奈子さん2005年11月6日にこの世を去った本田美奈子さんの死因は血液のがんである白血病でした。前年から微熱が続き風邪のような症状が現れていて、病院で診察を受けたところ急性骨髄性白血病であると診断され緊急入院となりました。中でも彼女が患った白血病は治療をしても効果が得られにくく、再発率の高い「治療抵抗性」のものでした。2度の化学療法や臍帯血移植を行い一度は退院しましたが、わずか2ヶ月後の再発により再入院し抗がん剤治療を開始します。本田美奈子さんの墓地様々な治療の甲斐なく肺への合併症から容態が急変し、家族に看取られながら38歳の若さで息を引き取りました。NEXT ▶︎ 本田美奈子の功績 1 2 3 SHARE ポスト シェア はてブ LINE CATEGORY :音楽史TAGS :アイドルクラシックミュージカルロック功績天使の歌声年表性格歌姫歌手武勇伝死因都市伝説 この記事を書いた人 京藤 一葉 ◼︎ プロフィール Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて歴史学を研究したのち出版業界に就職。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者をしています。 ◼︎ 歴史に対して一言 歴史情報を集める中で、特に歴史の新発見の報道について、それに関連することを調べるのが好きになりました。歴史には、歴史を裏付けるようなまたは、覆すような新たな発見がたくさんあります。レキシルでは新たな発見も踏まえながらも王道の情報を入念に調べ上げてご紹介できたらと思います。 ◼︎ 好きな歴史上のジャンル #文学史 # 美術史 #日本史 #世界史 #企業史 #宇宙史 #エンタメ史 ◼︎ 好きな歴史上の人物 #樋口一葉 #クレオパトラ #クララ・バートン #ナイチン・ゲール #坂本龍馬 #キング牧師 ■ 各種SNS ・ツイッターコメントを残す コメントをキャンセルコメント ※名前 Δ 前の記事 柳田国男はどんな人?民俗学での功績や名言も紹介【年表付】 次の記事 田中正造とはどんな人?生涯・年表まとめ【足尾銅山事件の活動や名… 同じカテゴリの人気記事POPULAR 1 整形に失敗した疑惑の芸能人&海外セレブTOP30 1595901 views 2 整形の変化が激しい芸能人ランキングTOP50 1213807 views 3 【悲報】悲しい死を迎えた36人の芸能人 786971 views 4 【衝撃】犯罪歴のある芸能人ランキングTOP30 490379 views 5 【悲報】芸能界を干された30人のタレント 380907 views 6 【悲報】不倫して人生崩壊した30人の有名タレント・芸能人 162397 views 7 【閲覧注意】日本国内の凶悪事件・怖い事件ランキングTOP30 88445 views 8 【悲報】週刊誌に「路チュー」をすっぱ抜かれた芸能人ランキングTOP28 79576 views CATEGORYPRエンタメ史ゲーム史ファッション史世界史人類史企業史写真史哲学史学問史宇宙史文学史日本史映画史生物史美術史音楽史ABOUTRekisiruとはお問い合わせ運営者情報TAGおすすめ (31) おすすめ本 (28) アニメ化 (23) アメリカ (82) イギリス (54) エッセイ (22) キリスト教 (25) クイズ (55) ドイツ (40) ドラマ化 (23) ファンタジー (25) フランス (44) ヨーロッパ (41) ロシア (24) ロック (20) 中国 (58) 事件 (202) 人気作 (24) 人物史 (106) 仏教 (20) 代表作 (48) 伝記 (30) 伝説 (22) 作家 (26) 内閣総理大臣 (23) 功績 (140) 古代文明 (21) 名作 (22) 名言 (155) 大河ドラマ (24) 天才 (26) 子孫 (22) 学び直し (49) 宗教 (37) 将軍 (24) 小説 (68) 小説家 (53) 幕末 (38) 平安時代 (44) 年表 (248) 性格 (87) 戦争 (59) 戦国時代 (49) 戦国武将 (28) 政治家 (46) 文化 (25) 文豪 (31) 日本 (44) 日本文学 (30) 明治時代 (46) 映画 (22) 映画化 (49) 昭和 (40) 書籍 (24) 本で学ぼう (70) 武勇伝 (84) 武将 (30) 歴史コンテンツ (170) 死因 (87) 殺人事件 (69) 江戸時代 (86) 漫画 (69) 漫画で学ぼう (38) 犯罪 (71) 画家 (23) 第一次世界大戦 (22) 第二次世界大戦 (47) 紀元前 (29) 芸能人 (62) 芸術家 (27) 語呂合わせ (28) 逸話 (54) 都市伝説 (122) 鎌倉時代 (35) 閲覧注意 (26) HOMERekisiruとはお問い合わせ運営者情報 プライバシーポリシー © 2024 Rekisiru All rights reserved.

从昭和偶像到声乐家——本田美奈子 - 知乎

从昭和偶像到声乐家——本田美奈子 - 知乎切换模式写文章登录/注册从昭和偶像到声乐家——本田美奈子知乎用户hAg4pw曾有日本麦当娜之称的话题歌姬-本田美奈子.,以大胆的曲风及多变的造型,成为日本八零年代的话题女王。漂亮的脸蛋、个子小小的她以外表看来只是个普通的美少女偶像,但当我听到她唱歌时才发觉她有一副强而有力的声线(有点像大黑摩季那种),属于日本偶像派中高音域那一类型,但不同是她的音域较宽阔,既有偶像派的魅力亦有技巧派的实力,印象最深是她的一首歌,1986年的玛丽莲(Mariline in 1986),只记得她一身摇滚歌手的打扮,及背的曲髮,热裤+肚脐+鱼网袜,加上有点沙哑的声线缓缓摇摆演唱,与她那张可爱的脸蛋不太相称,在那时的日本乐坛可说是颇特别的一个歌手。本田美奈子 Honda Minako(原名:工藤美奈子,1967年7月31日—2005年11月6日)出生于东京都葛饰区柴。昭和后期~平成时代的偶像、声乐家、音乐剧女优、演员。本田美奈子中学时报名了日本偶像选拔节目“明星诞生!”,但在决赛中落选。其后在原宿散步被东芝EMI星探发掘,参加少女队的甄选而进入演艺圈。在1984年第8届长崎歌谣祭中演唱了《梦少女》并获得头奖。翌年1985年以偶像歌手身份出道,同年获得许多新人奖,与中山美穗(Miho Nakayama),南野阳子(Yoko Minamino)等顶尖偶像同步首演。由于在她之前已有同姓艺人工藤夕贵出道,为了有所区分,将艺名取为本田,期望能进军全世界。后来发生的事大家也知道,昭和80年代松田圣子和中森明菜艳压群芳,本田美奈子在CD销量排名上陆续被其他偶像所超越,再加上不甘于被定位为偶像,便开始多方面发展她的演艺事业,经常挑战各种不同种类的音乐。本田美奈子常常研究制片人高杉(Takasugi)在美国购买的有关时尚、化妆、编舞等方面的音乐录影带和杂志,以寻找与同龄偶像不同的独特个性。为了创作一首可以更强烈地表达自己个性的歌曲,特意请秋元康(Yasushi Akimoto)作词,简美京平谱曲,于1986年发行代表作“ 1986年的玛丽莲(Mariline in 1986)”。这首歌不仅兼具摇滚风和新颖的歌词,最重要的是,美奈子精心编排的服装和编舞引起了很多人的关注,这首单曲最终售出了25万张。这里在插个题外话,这首1986年的玛丽莲后来在《白色相簿》成为登场角色绪方理奈的角色歌(CS)之一,由绪方理奈(CV:水树奈奈)演唱。作为绪方理奈的第二支单曲CD《POWDER SNOW》的C/W曲收录,呼应《白色相簿》故事发生在1986年。1988年,本田美奈子与WILD CATS组成女性摇滚乐队“MINAKO with WILD CATS”,后续发行《あなたと、热帯》、《WILD CATS》等歌曲。9月11日,出演由SHOW-YA企画的『NAONのYAON』演唱会。1992年,本田美奈子跨界音乐剧,成功从12000位竞争者脱颖而出,饰演著名音乐剧《西贡小姐》的女主角,之后连续演出一年半,本人的歌唱能力和演技都获得了很好的评价。同年获得第30届“ゴールデン・アロー赏”演剧新人奖,令她得到更多演出的机会。1996年参演《王様と私》,更是在音乐剧界得到极高的评价。2003年本田美奈子,开始跨界古典音乐的演出,并为此重新学习古典唱法,磨练自己的声音表情。5月,推出首张古典大碟“AVE MARIA”,得到岩谷时子的支援,在古典乐曲上谱上日本歌词,开拓出古典音乐的全新面貌,在各方面也引起很大话题。次年5月,本田美奈子把安东尼·德沃夏克的交响乐曲“新世界”亲自谱上新诗推出细碟。可惜的是天妒红颜,2005年1月误以为罹患感冒而赴医院时,被诊断出急性骨髓性白血病而紧急住院。经过三次化疗后,最后于2005年11月6日凌晨4时38分辞世,享年38岁。发布于 2020-07-14 22:05日本歌手日本女歌手​赞同 12​​1 条评论​分享​喜欢​收藏​申请

本田美奈子. - 维基百科,自由的百科全书

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序言

1經歷

2獲獎記錄

3作品列表

开关作品列表子章节

3.1單曲

3.2专辑

3.3精选专辑

3.4現場實況專輯

3.5原聲帶

3.6其他專輯

3.7CD BOX

3.8錄影帶/DVD

3.9廣告

4參見

5参考文献

6外部連結

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本田美奈子.

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此條目以編年體裁記載人物事蹟。 (2023年2月28日)維基百科不建議使用年表形式記述人物,請協助改善條目,將事實內容統整為有條理的文章段落。

本田美奈子.歌手出生工藤 美奈子(1967-07-31)1967年7月31日 日本東京都板橋區逝世2005年11月6日(2005歲—11—06)(38歲) 日本東京都港區职业歌手、女演員教育程度堀越高等学校畢業音乐类型J-POP、歌劇流行音樂、跨界音樂出道地点 日本東京都葛飾區出道日期1985年4月20日,33年前活跃年代1985年–2005年唱片公司EMI音樂日本、水星唱片、Bandai Music Entertainment、Marvelous、日本古倫美亞经纪公司Best Motoring(1996年–2005年)网站www.minako-channel.com相关团体岩谷時子、井上鑑、岡野博行

日語寫法日語原文本田 美奈子假名ほんだ みなこ平文式罗马字Honda Minako

本田美奈子.(本名:工藤美奈子,1967年7月31日—2005年11月6日)是日本歌手,80年代有日本麥當娜之稱[1]。东京都葛饰区柴又出生,埼玉县朝霞市成长。

以偶像歌手身份進入演藝圈,1990年代後轉往音樂劇發展,為知名的音樂劇女演員、歌手。

東京成德短期大學附屬高校(現:東京成徳大学高等学校)普通科入学(為出道而轉學)→ 堀越高等學校畢業。與石野陽子、岡田有希子、長山洋子、南野陽子、永瀨正敏、森奈みはる等人為同學。

經歷[编辑]

在日本節目「明星誕生!」決賽中落選。其後在原宿被星探發掘、參加少女隊的甄選而進入龐德企劃事務所。在1984年第8屆長崎歌謠祭中獲得首獎。翌年1985年以偶像歌手出道,同年獲得許多新人獎。由於在她之前已有同姓藝人工藤夕貴出道,為了有所區隔,將藝名字首取為本田(日本汽車廠HONDA),期望能進軍全世界;因為當時是松田聖子(MAZDA)的全盛期。

1985年以流行歌手出道,之後得到多個音樂獎項,同時於武道館舉行首個個人演唱會大成功。88年更組成全女班的樂隊"MINAKO with WILD CATS",在音樂的世界裡經常挑戰各種不同種類的音樂。

1992年,成功從12000位競爭者脫穎而出,有機會飾演著名音樂劇《西貢小姐》的女主角,長達一年六個月的長時間演出,令她得到更多演出的機會,在音樂劇界得到極高的評價。

2000年8月,參與由悉尼管弦樂團主辦的「日澳親善演唱會」。10月在東京青山劇場舉行的出道15周年獨唱會中提倡「歌革命」,引來很大回響。

2003年5月,推出首張古典大碟「AVE MARIA」,得到岩谷時子的支援,在古典樂曲上譜上日本歌詞,開拓出古典音樂的全新面貌,在各方面也引起很大話題。

2004年5月,本田美奈子在安東尼·德弗札克死後100年,把他的交響樂曲「新世界」親自譜上新詩推出細碟。同時在全國舉行的音樂劇《克勞狄亞》中飾演女主角得到一致好評。

2004年11月、在電視節目中接受細木數子的建議,在名字最後加上「.」→(本田美奈子.)使名字總筆劃達到31劃,最後的「.」不發音。

2005年1月誤以為罹患感冒而赴醫院時,被診斷出急性骨髓性白血病而緊急住院。經過三次化療後,5月再接受臍帶血移植。後來發現染色體出現異常,試用美國製造的新特效藥,病況一時好轉,然而在10月再次發現染色體異常,11月初入院,最後於2005年11月6日凌晨4時38分辭世,享年38歲。

獲獎記錄[编辑]

1984年第8回長崎音樂節最高獎

第4回巨大都市音樂節(東京)最優秀新人鑽石獎

第11回日本TV音樂新人獎

85全日本歌謠音樂節銀獎

第16回日本歌謠大賞優秀廣播音樂新人獎

第18回日本有綫大獎新人獎(TBS)

第18回全日本有綫大獎新人獎(YTV)

第23回日本唱片大獎新人獎(TBS)

第23回流行音樂部新人獎

第12回日本TV音樂節金之鳩獎

ANB'86全日本歌謠音樂節最優秀獎

第19回日本有綫大獎有綫音樂獎受獎(TBS)

1987年音樂獎最佳'87第1位(女性部)

2003年第二回日本浴衣大獎(三越劇場)等多數。

作品列表[编辑]

單曲[编辑]

殺意假期(殺意のバカンス)(1985年4月20日)

說你愛我(好きと言いなさい)(1985年7月20日)

青色週末(青い週末)(1985年8月31日)

限定5万枚。ハート型カラーレコード。

Temptation(誘惑)(1985年9月28日)

東芝「石油ファンヒーター」廣告曲。

1986年のマリリン(1986年2月5日)

Sosotte(1986年5月1日)

東芝「イマージュ」廣告曲。

HELP(1986年7月23日)

公共広告機構宣傳曲。

the Cross -愛の十字架-(1986年9月3日)

作曲はゲイリー・ムーア

Oneway Generation(1987年2月4日)

東京放送TBS系連續劇「我的爸爸是主播」主題歌。

CRAZY NIGHTS(1987年4月22日)

12吋單曲。東芝「イマージュ」廣告曲。富士電視台系「フローズンホラーショー」主題歌。

布賴恩·梅(皇后樂隊)擔綱製作。

GOLDEN DAYS(1987年5月11日)

僅於英國發行。布賴恩·梅(皇后樂隊)擔綱製作。

HEART BREAK(1987年6月22日)

孤獨的颶風(孤独なハリケーン)(1987年9月9日)

松竹電影「パッセンジャー」主題歌。

悲傷的SWING(悲しみSWING)(1987年11月25日)

你與、熱帶(あなたと、熱帯)(1988年7月6日)

「MINAKO with WILDCATS」名義。

Stand Up~Full Metal Armor(1988年11月30日)

「MINAKO with WILDCATS」名義。

隨我高興(勝手にさせて)(1989年5月31日)

「MINAKO with WILDCATS」名義。

7th Bird "愛に恋"(1989年月11日)

Autorama7周年廣告曲。

香格里拉(SHANGRI-LA)(1990年7月4日)

翅膀(つばさ)(本田美奈子)(1994年5月25日)

搖籃曲~讓我溫柔地抱著你(ら・ら・ば・い~優しく抱かせて)(1995年5月10日)

讀賣電視台・日本電視台系動畫「魔法騎士雷阿斯」片尾曲。

來我家住吧(僕の部屋で暮らそう)(1995年7月26日)

TBS系「TICOS」主題歌。

Fall In Love With You -墜入愛河(恋に落ちて)(1995年11月6日)

TBS系綜藝節目「ウェディングベル」片尾曲。

shining eyes(1996年7月21日)

風的歌(風のうた)(1999年11月21日)

富士電視台系動畫「Hunter × Hunter」片尾曲。

Honey(2000年10月21日)

出道15周年記念。

星空(2001年1月24日)

本田美奈子/影山ヒロノブ/櫻井智・横山智佐名義。PS2電玩「DOG OF BAY」主題歌。

ナージャ!!(2003年2月21日)

朝日放送・朝日電視台系動畫「明日のナージャ」(妮嘉尋親記)主題歌。

新世界(本田美奈子。)(2004年5月14日)

生前最後一張單曲,也是改名為「本田美奈子。」發行的唯一單曲。

专辑[编辑]

M症候群(1985年11月21日)

LIPS(本田美奈子。)|LIPS(1986年6月4日)

CANCEL(1986年9月28日)

OVERSEA(1987年6月22日)

Midnight Swing(1987年12月16日)

WILD CATS(1988年8月5日)

「MINAKO with WILDCATS」名義。

豹的(TARGET) (1989年7月5日)

「MINAKO with WILDCATS」名義。

JUNCTION(1994年9月24日)

晴 時 多雲(晴れ ときどき くもり)(1995年6月25日)

AVE MARIA(2003年5月21日)

時(2004年11月25日)

心を込めて...(2006年4月20日)

安穩的世界(優しい世界)(2006年12月6日)

精选专辑[编辑]

MINAKO COLLECTION(1986年12月20日)

Look over my shoulder(1988年10月26日)

LIFE -Minako Honda. Premium Best-(2005年5月21日)

奇異恩典(アメイジング・グレイス)(2005年10月19日)

收錄曲「奇異恩典(アメイジング・グレイス)」為公共廣告機構宣傳曲。

收錄曲「奇異恩典(アメイジング・グレイス)」為日本電視台系連續劇「最後的南丁格爾」主題歌。

I LOVE YOU(2006年3月29日)

現場實況專輯[编辑]

ザ・ヴァージン・コンサート(1986年2月20日)

DISPA 1987(1988年1月25日)

原聲帶[编辑]

パッセンジャー(1987年10月26日)

西貢小姐 -日本公演精選版-(1992年4月8日)

西貢小姐 -帝劇公演完全現場版-(1993年5月19日)

國王與我 -特別公演全幕現場版-(1998年2月18日)

第十二夜 -精選・現場錄音版-(2003年11月14日)

其他專輯[编辑]

ゴールデンベスト(1987年6月5日)

バラードコレクション(1989年6月7日)

best now(1989年9月13日,1990年11月14日)

SHANGRI-LA -BEST POP COLLECTION-(1990年12月12日)

Stand up -BEST BEAT COLLECTION-(1990年12月12日)

Big Artist Best Collection(1994年12月7日)

TWIN BEST(1998年5月13日)

2000 millennium BEST(2000年5月24日)

Golden☆Best(2003年6月25日)

NEW BEST 1500(2005年8月24日)

CD&DVD THE BEST(2005年12月7日)

CD BOX[编辑]

美奈子・全仕事(1987年8月5日)

本田美奈子BOX(2004年12月15日)

錄影帶/DVD[编辑]

The Virgin Live In Budokan

DANGEROUS BOND STREET

DRAMATIC FLASH

DISPA 1987

MINAKO in L.A.

勝手にさせて

TROPICAL HOLIDAY

TROPICAL HOLIDAY In HAWAI

廣告[编辑]

Toshiba Heater (1985) (Temptation 誘惑 ー 本田美奈子主唱)

Pocky (1986 - 本田美奈子主唱)

Toshiba Walky (Sneak Away - 本田美奈子主唱)

百奇(1988年)

白花油(1989年)

參見[编辑]

布赖恩·梅(皇后)— 作曲1987年的乐曲‘疯狂夜’(Crazy Nights)与‘金色的岁月’(Golden Days),她提供了。

参考文献[编辑]

天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生. ワニブックス. 2007-05-20. ISBN 9784847017230. 

80年代アイドルcollection. 別冊宝島 2611. 宝島社. 2017-08-07. ISBN 9784800271228. 

外部連結[编辑]

本田美奈子。官方网站 (页面存档备份,存于互联网档案馆) (日語)

查论编金箭獎圖形獎得主1960年代

67 西野芭蕾舞團(金井克子(日语:金井克子),由美薰,原田糸子(日语:原田糸子),奈美悅子)

68 美輪明宏

69 浅丘琉璃子

1970年代

70 邊見萬里

71 池玲子(日语:池玲子)

72 山本琳達

73 由美薰

74 西城秀樹

75 岡田奈奈

76 松本千枝子

77 夏目雅子

78 粉紅淑女

79 榊原郁惠

1980年代

80 河合奈保子

81 柏原芳惠

82 美保純(日语:美保純)

83 田原俊彥

84 小泉今日子

85 澤口靖子

86 本田美奈子.

87 南野阳子

88 淺香唯

89 井森美幸

1990年代

90 西田光

91 觀月亞里莎

92 C.C.女孩

93 鈴木杏樹

94 瀨戶朝香

95 雛形明子

96 廣末涼子

97 吉川陽菜乃

98 优香

99 本上愛美

2000年代

00 釋由美子

01 井川遙

02 吉岡美穗

03 井上和香

04 岩佐真悠子

05 安田美沙子

06 星野亞希

07 南明奈

09 佐佐木希

2010年代

10 櫻庭奈奈美

11 武井咲

12 剛力彩芽

13 能年玲奈

规范控制

WorldCat Identities

MusicBrainz: c5d88ef7-0b59-40be-951a-1f70a21a51a4

NDL: 00152751

VIAF: 257478410

^ 存档副本. [2021-04-04]. (原始内容存档于2016-02-02). 

取自“https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=本田美奈子.&oldid=80722002”

分类:​1967年出生2005年逝世日本女歌手日本流行音樂歌手埼玉縣出身人物日本古倫美亞旗下藝人日本罹患白血病逝世者EMI音樂日本旗下藝人堀越高等學校校友隐藏分类:​自2023年2月需补充来源的条目拒绝当选首页新条目推荐栏目的条目自2023年2月需要校對的頁面含有多个问题的条目自2023年2月年譜形式的人物條目使用教育程度参数的艺人信息框含有hCards的条目本地和维基数据均无相关图片含有日語的條目包含MusicBrainz标识符的维基百科条目包含NDL标识符的维基百科条目包含VIAF标识符的维基百科条目

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序言

1经历

2获奖记录

3作品列表

开关作品列表子章节

3.1单曲

3.2专辑

3.3精选专辑

3.4现场实况专辑

3.5原声带

3.6其他专辑

3.7CD BOX

3.8录像带/DVD

3.9广告

4参见

5参考文献

6外部链接

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本田美奈子.

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本田美奈子.歌手出生工藤 美奈子(1967-07-31)1967年7月31日 日本东京都板桥区逝世2005年11月6日(2005岁—11—06)(38岁) 日本东京都港区职业歌手、女演员教育程度堀越高等学校毕业音乐类型J-POP、歌剧流行音乐、跨界音乐出道地点 日本东京都葛饰区出道日期1985年4月20日,33年前活跃年代1985年–2005年唱片公司EMI音乐日本、水星唱片、Bandai Music Entertainment、Marvelous、日本古伦美亚经纪公司Best Motoring(1996年–2005年)网站www.minako-channel.com相关团体岩谷时子、井上鉴、冈野博行

日语写法日语原文本田 美奈子假名ほんだ みなこ平文式罗马字Honda Minako

本田美奈子.(本名:工藤美奈子,1967年7月31日—2005年11月6日)是日本歌手,80年代有日本麦当娜之称[1]。东京都葛饰区柴又出生,埼玉县朝霞市成长。

以偶像歌手身份进入演艺圈,1990年代后转往音乐剧发展,为知名的音乐剧女演员、歌手。

东京成德短期大学附属高校(现:东京成徳大学高等学校)普通科入学(为出道而转学)→ 堀越高等学校毕业。与石野阳子、冈田有希子、长山洋子、南野阳子、永濑正敏、森奈みはる等人为同学。

经历[编辑]

在日本节目“明星诞生!”决赛中落选。其后在原宿被星探发掘、参加少女队的甄选而进入庞德企划事务所。在1984年第8届长崎歌谣祭中获得首奖。翌年1985年以偶像歌手出道,同年获得许多新人奖。由于在她之前已有同姓艺人工藤夕贵出道,为了有所区隔,将艺名字首取为本田(日本汽车厂HONDA),期望能进军全世界;因为当时是松田圣子(MAZDA)的全盛期。

1985年以流行歌手出道,之后得到多个音乐奖项,同时于武道馆举行首个个人演唱会大成功。88年更组成全女班的乐队"MINAKO with WILD CATS",在音乐的世界里经常挑战各种不同种类的音乐。

1992年,成功从12000位竞争者脱颖而出,有机会饰演著名音乐剧《西贡小姐》的女主角,长达一年六个月的长时间演出,令她得到更多演出的机会,在音乐剧界得到极高的评价。

2000年8月,参与由悉尼管弦乐团主办的“日澳亲善演唱会”。10月在东京青山剧场举行的出道15周年独唱会中提倡“歌革命”,引来很大回响。

2003年5月,推出首张古典大碟“AVE MARIA”,得到岩谷时子的支援,在古典乐曲上谱上日本歌词,开拓出古典音乐的全新面貌,在各方面也引起很大话题。

2004年5月,本田美奈子在安东尼·德弗札克死后100年,把他的交响乐曲“新世界”亲自谱上新诗推出细碟。同时在全国举行的音乐剧《克劳狄亚》中饰演女主角得到一致好评。

2004年11月、在电视节目中接受细木数子的建议,在名字最后加上“.”→(本田美奈子.)使名字总笔划达到31划,最后的“.”不发音。

2005年1月误以为罹患感冒而赴医院时,被诊断出急性骨髓性白血病而紧急住院。经过三次化疗后,5月再接受脐带血移植。后来发现染色体出现异常,试用美国制造的新特效药,病况一时好转,然而在10月再次发现染色体异常,11月初入院,最后于2005年11月6日凌晨4时38分辞世,享年38岁。

获奖记录[编辑]

1984年第8回长崎音乐节最高奖

第4回巨大都市音乐节(东京)最优秀新人钻石奖

第11回日本TV音乐新人奖

85全日本歌谣音乐节银奖

第16回日本歌谣大赏优秀广播音乐新人奖

第18回日本有线大奖新人奖(TBS)

第18回全日本有线大奖新人奖(YTV)

第23回日本唱片大奖新人奖(TBS)

第23回流行音乐部新人奖

第12回日本TV音乐节金之鸠奖

ANB'86全日本歌谣音乐节最优秀奖

第19回日本有线大奖有线音乐奖受奖(TBS)

1987年音乐奖最佳'87第1位(女性部)

2003年第二回日本浴衣大奖(三越剧场)等多数。

作品列表[编辑]

单曲[编辑]

杀意假期(杀意のバカンス)(1985年4月20日)

说你爱我(好きと言いなさい)(1985年7月20日)

青色周末(青い周末)(1985年8月31日)

限定5万枚。ハート型カラーレコード。

Temptation(诱惑)(1985年9月28日)

东芝“石油ファンヒーター”广告曲。

1986年のマリリン(1986年2月5日)

Sosotte(1986年5月1日)

东芝“イマージュ”广告曲。

HELP(1986年7月23日)

公共広告机构宣传曲。

the Cross -爱の十字架-(1986年9月3日)

作曲はゲイリー・ムーア

Oneway Generation(1987年2月4日)

东京放送TBS系连续剧“我的爸爸是主播”主题歌。

CRAZY NIGHTS(1987年4月22日)

12吋单曲。东芝“イマージュ”广告曲。富士电视台系“フローズンホラーショー”主题歌。

布赖恩·梅(皇后乐队)担纲制作。

GOLDEN DAYS(1987年5月11日)

仅于英国发行。布赖恩·梅(皇后乐队)担纲制作。

HEART BREAK(1987年6月22日)

孤独的飓风(孤独なハリケーン)(1987年9月9日)

松竹电影“パッセンジャー”主题歌。

悲伤的SWING(悲しみSWING)(1987年11月25日)

你与、热带(あなたと、热帯)(1988年7月6日)

“MINAKO with WILDCATS”名义。

Stand Up~Full Metal Armor(1988年11月30日)

“MINAKO with WILDCATS”名义。

随我高兴(胜手にさせて)(1989年5月31日)

“MINAKO with WILDCATS”名义。

7th Bird "爱に恋"(1989年月11日)

Autorama7周年广告曲。

香格里拉(SHANGRI-LA)(1990年7月4日)

翅膀(つばさ)(本田美奈子)(1994年5月25日)

摇篮曲~让我温柔地抱着你(ら・ら・ば・い~优しく抱かせて)(1995年5月10日)

读卖电视台・日本电视台系动画“魔法骑士雷阿斯”片尾曲。

来我家住吧(仆の部屋で暮らそう)(1995年7月26日)

TBS系“TICOS”主题歌。

Fall In Love With You -坠入爱河(恋に落ちて)(1995年11月6日)

TBS系综艺节目“ウェディングベル”片尾曲。

shining eyes(1996年7月21日)

风的歌(风のうた)(1999年11月21日)

富士电视台系动画“Hunter × Hunter”片尾曲。

Honey(2000年10月21日)

出道15周年记念。

星空(2001年1月24日)

本田美奈子/影山ヒロノブ/樱井智・横山智佐名义。PS2电玩“DOG OF BAY”主题歌。

ナージャ!!(2003年2月21日)

朝日放送・朝日电视台系动画“明日のナージャ”(妮嘉寻亲记)主题歌。

新世界(本田美奈子。)(2004年5月14日)

生前最后一张单曲,也是改名为“本田美奈子。”发行的唯一单曲。

专辑[编辑]

M症候群(1985年11月21日)

LIPS(本田美奈子。)|LIPS(1986年6月4日)

CANCEL(1986年9月28日)

OVERSEA(1987年6月22日)

Midnight Swing(1987年12月16日)

WILD CATS(1988年8月5日)

“MINAKO with WILDCATS”名义。

豹的(TARGET) (1989年7月5日)

“MINAKO with WILDCATS”名义。

JUNCTION(1994年9月24日)

晴 时 多云(晴れ ときどき くもり)(1995年6月25日)

AVE MARIA(2003年5月21日)

时(2004年11月25日)

心を込めて...(2006年4月20日)

安稳的世界(优しい世界)(2006年12月6日)

精选专辑[编辑]

MINAKO COLLECTION(1986年12月20日)

Look over my shoulder(1988年10月26日)

LIFE -Minako Honda. Premium Best-(2005年5月21日)

奇异恩典(アメイジング・グレイス)(2005年10月19日)

收录曲“奇异恩典(アメイジング・グレイス)”为公共广告机构宣传曲。

收录曲“奇异恩典(アメイジング・グレイス)”为日本电视台系连续剧“最后的南丁格尔”主题歌。

I LOVE YOU(2006年3月29日)

现场实况专辑[编辑]

ザ・ヴァージン・コンサート(1986年2月20日)

DISPA 1987(1988年1月25日)

原声带[编辑]

パッセンジャー(1987年10月26日)

西贡小姐 -日本公演精选版-(1992年4月8日)

西贡小姐 -帝剧公演完全现场版-(1993年5月19日)

国王与我 -特别公演全幕现场版-(1998年2月18日)

第十二夜 -精选・现场录音版-(2003年11月14日)

其他专辑[编辑]

ゴールデンベスト(1987年6月5日)

バラードコレクション(1989年6月7日)

best now(1989年9月13日,1990年11月14日)

SHANGRI-LA -BEST POP COLLECTION-(1990年12月12日)

Stand up -BEST BEAT COLLECTION-(1990年12月12日)

Big Artist Best Collection(1994年12月7日)

TWIN BEST(1998年5月13日)

2000 millennium BEST(2000年5月24日)

Golden☆Best(2003年6月25日)

NEW BEST 1500(2005年8月24日)

CD&DVD THE BEST(2005年12月7日)

CD BOX[编辑]

美奈子・全仕事(1987年8月5日)

本田美奈子BOX(2004年12月15日)

录像带/DVD[编辑]

The Virgin Live In Budokan

DANGEROUS BOND STREET

DRAMATIC FLASH

DISPA 1987

MINAKO in L.A.

胜手にさせて

TROPICAL HOLIDAY

TROPICAL HOLIDAY In HAWAI

广告[编辑]

Toshiba Heater (1985) (Temptation 诱惑 ー 本田美奈子主唱)

Pocky (1986 - 本田美奈子主唱)

Toshiba Walky (Sneak Away - 本田美奈子主唱)

百奇(1988年)

白花油(1989年)

参见[编辑]

布赖恩·梅(皇后)— 作曲1987年的乐曲‘疯狂夜’(Crazy Nights)与‘金色的岁月’(Golden Days),她提供了。

参考文献[编辑]

天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生. ワニブックス. 2007-05-20. ISBN 9784847017230. 

80年代アイドルcollection. 别册宝岛 2611. 宝岛社. 2017-08-07. ISBN 9784800271228. 

外部链接[编辑]

本田美奈子。官方网站 (页面存档备份,存于互联网档案馆) (日语)

查论编金箭奖图形奖得主1960年代

67 西野芭蕾舞团(金井克子(日语:金井克子),由美薰,原田糸子(日语:原田糸子),奈美悦子)

68 美轮明宏

69 浅丘琉璃子

1970年代

70 边见万里

71 池玲子(日语:池玲子)

72 山本琳达

73 由美薰

74 西城秀树

75 冈田奈奈

76 松本千枝子

77 夏目雅子

78 粉红淑女

79 榊原郁惠

1980年代

80 河合奈保子

81 柏原芳惠

82 美保纯(日语:美保純)

83 田原俊彦

84 小泉今日子

85 泽口靖子

86 本田美奈子.

87 南野阳子

88 浅香唯

89 井森美幸

1990年代

90 西田光

91 观月亚里莎

92 C.C.女孩

93 铃木杏树

94 濑户朝香

95 雏形明子

96 广末凉子

97 吉川阳菜乃

98 优香

99 本上爱美

2000年代

00 释由美子

01 井川遥

02 吉冈美穗

03 井上和香

04 岩佐真悠子

05 安田美沙子

06 星野亚希

07 南明奈

09 佐佐木希

2010年代

10 樱庭奈奈美

11 武井咲

12 刚力彩芽

13 能年玲奈

规范控制

WorldCat Identities

MusicBrainz: c5d88ef7-0b59-40be-951a-1f70a21a51a4

NDL: 00152751

VIAF: 257478410

^ 存档副本. [2021-04-04]. (原始内容存档于2016-02-02). 

取自“https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=本田美奈子.&oldid=80722002”

分类:​1967年出生2005年逝世日本女歌手日本流行音乐歌手埼玉县出身人物日本古伦美亚旗下艺人日本罹患白血病逝世者EMI音乐日本旗下艺人堀越高等学校校友隐藏分类:​自2023年2月需补充来源的条目拒绝当选首页新条目推荐栏目的条目自2023年2月需要校对的页面含有多个问题的条目自2023年2月年谱形式的人物条目使用教育程度参数的艺人信息框含有hCards的条目本地和维基数据均无相关图片含有日语的条目包含MusicBrainz标识符的维基百科条目包含NDL标识符的维基百科条目包含VIAF标识符的维基百科条目

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本田美奈子.

本名:工藤美奈子

生年月日:1967年7月31日

出身地:東京都葛飾区柴又

デビュー:1985年4月20日

シングル『殺意のバカンス』

1985年東芝EMIより「殺意のバカンス」にてデビュー。数々の音楽賞を受賞し、同年12月にはファーストコンサート(M'シンドローム)を武道館にて行う。

ソロ活動以外にも1988年"MINAKO with WILD CATS"という女性ロックバンドを結成するなど、常に音楽の世界において新しいジャンルに挑戦し、独自の世界を切り開いてきた。

1992年の「ミス・サイゴン」主役のキム役を12000人の中から射止め1年6ヶ月のロングランを無事に終え、以後「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ役「屋根の上のヴァイオリン弾き」でのホーデル役、そして「王様と私」のタプチム役など数々の役柄を好演し、ミュージカル界から高い評価を得ている。

2000年には8月にシドニーのオペラハウスで『日豪親善コンサート』に参加。10月に東京青山劇場においてデビュー15周年記念リサイタル「歌革命」を開催し、大きな反響を呼んだ。

2002年10月19日にはピーボ・ブライソンとのデュエット『美女と野獣』も発売され、2003年の5月21日には“SOPRANO VOCAL”アルバム『AVE MARIA』をリリース。2004年5月マキシシングル『新世界』(ドヴォルザーク/本田美奈子・作詞)リリース。

新しい歌の世界を築き、また、2003年10・11月にはミュージカル「十二夜」(帝劇)2004年2月ミュージカル「ひめゆり」2004年5月〜7月、地球ゴージャスミュージカル「クラウディア」クラウディア役を好演、ますます活躍の場を広げた。

2004年11月には、クラシカル・クロスオーバー・アルバム第2弾「時」をリリース、デビュー20周年に向けて更なる飛躍を期していた2005年1月12日に急性骨髄性白血病との診断を受け、即日入院。臍帯血移植などの治療を受け、一時快方に向かっていたが、2005年11月6日、容態が急変し帰らぬ人となった。

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